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第5章 流動的知性で考える

第5章 流動的知性で考える

1 蜘蛛の巣が張った硬い脳にも流動的知性が湧く
 小生の脳は硬い。今年還暦を迎えた。有名私立小学校には入学試験があり、幼稚園児がお受験で競い合うのであるが、その受験問題が解けるかというと、悔しいかな解けないのである。頭を柔らかくして考えないと解けない問題が多いのである。彼らの頭は柔らかい。絹ごし豆腐のように柔らかい。一方、小生の脳味噌は高野豆腐のように硬くなってしまっている。おまけに蜘蛛の巣も張ってきているようだ。幼稚園児と競い合っても勝てない、この情けなさ。
 でも、小生にはチョッピリだけ誇り得る頭脳がある。序章で紹介した、通常とは異なった論理の採用が少しだけできることである。そうした異質の論理を働かせてやれば、幸運にも何かが見えてくることが時としてあるのである。とんでもないことが一瞬のうちに脳の中でパーッと広がり、晴れ上がるのである。「わかったぁ! なーんだぁ、そうだったのか!」
 しかし、その後が大変である。そのとんでもない結論をどうやったら他人に分かってもらえるのか。面倒くさいが、かなりの回り道をしながら、通常の論理=「ロゴスの論理」でもって順々に語っていくしかないのである。そうしないことには、他人にはとても理解してもらえない。それでも説明しきれないところが出てきてしまう。そうした部分は「レンマの論理」など別の論理を持ち出して、失礼ながら「押して量れ!」と言わざるを得ないことになる。
 さて、この宇宙がどういう構造をしているのかが、どうして一瞬のうちに閃いたのかを、可能な限り詳細に紹介しよう。
 序章で申し上げたとおり、一番肝腎なことは、新発見の内容ではなくて、そこにたどり着いた思考方法なのであるから。

 閃きが生じた時からさかのぼること半年ほど前、NHKの特集番組で、地球誕生の歴史を数回にわたって放映していた。謎解きのきっかけは、その一場面をふっと思い出したときのことである。それは、コンピュータ・グラフィックで紹介されたものだが、次のようなものであった。
 “巨大な隕石が地球に衝突して、物凄い熱波が発生し、その熱波が、地表のあらゆるものを溶かしながら、壮大なスケールで地球の裏側へと押し寄せていく。”
 小生の記憶には、巨大隕石が衝突した地点の対極点(地球の裏側の最も遠い地点)に熱波が押し寄せた、その瞬間の映像は残っていなかったものの、対極点では、四方八方から来た熱波が濃縮されて集まり、巨大な火柱が立ち昇ったに違いないと想像できた。
 これを切っ掛けとして、次々と類似現象が脳を駆け巡り、それらが瞬く間に繋ぎ合わさっていったのである。
 最初に登場したのが津波であり、南米のチリで起きた地震による三陸地方の大津波被害である。地球の反対側に近い所で起きた海底地震により、海水面が持ち上げられて何の変哲もないうねりが発生し、それが大海原を延々と旅して三陸地方のリアス式海岸までたどり着き、その海岸地形が作り出す波のエネルギーの濃縮効果によって、大津波を起こしたという現象である。
 この大津波は、隕石衝突の時とは多少性質の異なる濃縮効果ではあるが、ともに地球の反対側へ大きな影響を及ぼすという類似点があるから、結び付いてしまったのである。
 次に脳裏に現われたのが、この宇宙における、ある特定な周波数を持った電波が地球1点をめがけて降り注いでくるという「宇宙背景放射」の現象である。前2つは地球という2次元平面での出来事であるが、これは3次元宇宙の出来事であり、次元の違う世界での現象であるものの、1点に集中するという同一の性質であることから、自然と結び付いてしまったのである。
 それと同時に、遠くにある銀河が猛スピードで一様に地球から離れていくように見える「赤方偏移」の現象が、その正反対の現象として重なり合った。
 この「赤方偏移」の現象については、隕石衝突の映像を思い出す以前は、これを認識論的に解釈し、遠方の銀河が静止しているとして、何とか説明が付かないものかと、あれこれ思案していた。
 単純に解釈すると、地球があらゆる方向の銀河から遠ざかるしかなく、「虚数の3次元空間」なるものがあって、その中へ地球が猛スピードで落ち込んでいくしかない。まるで「アリ地獄」に全てのものを引きずり込むがごとく。
 この発想は、とても合点がいくものではなく、また、あまりにも幼稚に思えたものの、なぜか「アリ地獄」だけは頭から離れることはなかった。これが幸いした。隕石衝突の映像が思い浮かんだことにより、我が地球が「アリ地獄」になっているのではなく、宇宙の最果ての銀河が「アリ地獄」なのだと直感認識できたのである。
 そのとき、宇宙の基本構造がたちどころに理解できてしまったのである。
 それはどうしてか。これを説明しよう。
 あらゆる方向へ向かって、波(熱波なり津波なり電波なり光なり)が均等に出て行ったり、逆に、あらゆる方向から均等に押し寄せてきたりする現象は、2次元球面であろうと3次元空間であろうと、皆「球面」のなせる「技」であって、同質の現象であるんだ。
 つまり、地球の隕石衝突地点の対極点が「すぼんだ」状態にあるように、宇宙の果てが「すぼんだ」状態にあり、同時に、宇宙の中心である地球も「すぼんだ」状態にあるんだ。そして、この宇宙のどこもかもが「すぼんだ」状態を作り出したがっているんだ。
 なぁんだ、宇宙空間のゆがみとは、こういうことかぁ。
 ただ、それだけのことであった。
 地球上における2つの現象と宇宙における別々の2つの現象が、同質のものとして脳の中で一致しただけである。「レンマの論理」と「対称性の論理」が、ほんのちょっと働いただけのことである。
 ここまで読み進められた方の中には、流動的知性が働いて、宇宙の姿がぼんやりと分かりかけたことでしょう。
 でも、次のような疑問を持たれた方もあろう。宇宙の果てが「すぼんだ」状態であれば、反対の位置にある宇宙の中心は「開いた」状態になっていてもよいのではないかと。
 これについては、地球に隕石が衝突した映像の続きを想像してみるとよい。隕石衝突地点の対極点に熱波が押し寄せて、巨大な火柱が立ち昇った後の出来事である。その巨大な火柱は、地球の引力よって地面に崩れ落ちるであろう。そうすると、今度は、その地点をスタートとして、熱波が四方八方に広がり始め、逆のルートをたどって、ついには最も離れた隕石衝突地点に熱波のエネルギーが集中するであろう。そして、再び、隕石衝突地点に小さなものではあるが火柱が立ち昇る。このようにして、「開いた」状態であるべき地点も「すぼんだ」状態になろうとするのである。
 さらに小生が直感認識したことを、補足しよう。
 まず、宇宙背景放射についての認識。宇宙のあらゆる方向から電波が降り注ぐという現象は、その全ての電波が最果ての銀河からやってきた電波なのだ。加えて、その出所はたった1箇所の最果ての銀河なのだ。それは地球の北極点と南極点の位置関係にあるんだ。そして、我々には地球が宇宙の中心のように認識され、地球=「アリ地獄」に宇宙の全てを引きずり込みたくて、「すぼんだ」状態を作り出そうとしているのだ。
 次に、赤方偏移についての認識。我々の地球が宇宙の中心であろうとすると同時に、最果ての銀河も宇宙の中心であろうとする。
 従って、最果ての銀河も「すぼんだ」状態を作り出したがっている。つまり、最果ての銀河も、あらゆる銀河から発せられた光を、「アリ地獄」の奥まった中心に「引きずり込もう」とする。あたかも地球で観測されている宇宙背景放射のように。
 最果ての銀河が、このようにして光を「引きずり込もう」とするから、我々には、地球からより遠い銀河ほど、猛スピードで地球から離れていくように見えてしまう。
 なお、ここで言う「引きずり込もうとする力」は、実在する力ではない。これは流動的知性の世界に入り込むことによって、小生が勝手に、空間の「ゆがみ」をそのように感じ取っているだけなのである。「アリ地獄」についても同様である。
 感じ取ったことについて、一部重複するが、もう少し説明を続ける。
 地球の近くにある銀河間の距離は「正常に」観測されるのに対して、遠方の銀河間の距離は「引き伸ばされて」、遠く離れているように観測されてしまうのだ。最果てに近い銀河となると、2つの銀河がいくら接近していても、我々には、1つは北極点の上空に見え、もう1つは南極点の上空に見えてしまうんだ。地球からは、とんでもなく離れて観測されるのであるが、実際には至近距離なんだ。
 ここで、有り難いことに、近くの銀河と遠方の銀河の見え方が大きく違って観測されることも思考する上で大いに助かった。遠方の銀河ほど猛スピードで地球から遠ざかっているように見えるという現象である。
 この現象は、最果ての銀河の立場に立って考えると、あたかも最果ての銀河が、「我が銀河は、隣の銀河と至近距離にあるのだ。」と自己主張し、そのような姿を実現させるために、「引きずり込もうとする力」でもって「すぼんだ」状態を作り出そうとする意志があることを、地球の我々に知らしめているのだ。
 我々には、空間の「ゆがみ」が観測できない代わりに、「引きずり込もうとする力」で「すぼんだ」状態を作り出そうとするものとして認識でき得るのである。
 さあ、どうでしょう。あなたも、ここら辺りで、流動的知性が湧いてきませんか。
 銀河を単なる物質ではなく、人間と同じように意志を持った「生き物」であると思って、素直な気持ちになり、「人間(自分)=銀河」と同時に「銀河=人間(自分)」であるとして、両者を完全に同質化し、少なくとも銀河を「擬人化」して考えれば、流動的知性も湧きやすくなってくると思うのですがいかがでしょう。
 序章で紹介したように、アインシュタインも「謙虚であれ。」と言っているが、「謙虚」とは、こうした人間と事物の「同質化」を指しているようにも思えるのである。そうすることによって、流動的知性が湧いてくると思う。少なくとも小生の場合はそうである。

 ここで、しばし脱線するが、今までに小生に積もり積もったストレスを解消するために、少々お付き合いいただきたい。
 「宇宙は閉じた3次元球面である」ことを知っていたはずのアインシュタインである。そして、流動的知性が豊かなアインシュタインである。よって、「アインシュタインよ、なぜに、こんな簡単なことに直観力が働かなかったのか。」と言いたくなる。加えて、頭脳明晰であるはずの宇宙物理学者たちが、いつまで経ってもなぜにこの結論に至らないのか、腹立たしさを隠せない。
 世の物理学者の全員がアインシュタインの奴隷になってしまっていて、大宇宙の真理を解くには一般相対性理論しかないと信じきってしまい、分厚い専門書を読むことしか知らないのであろうか。
 学術研究で疲れた頭を休めるために、山奥の温泉に出かけて露天風呂にでも浸かりながら、眩しいほどに光り輝く満天の星々を眺めていれば、必ずや何か閃いてこようというのに。天井のシミを眺めているだけでも小生の脳に閃いたくらいであるのだから。
 宇宙物理学者が、その基本である「宇宙を眺める」ということをしておれば、とっくの昔に宇宙の構造が分かっていたはずである。アインシュタインの奴隷であるならば、アインシュタインの名言に従うべきである。序章で紹介したように「何かを学ぶためには自分で体験する以上に良い方法はない。想像の力は知識の力よりも重要である。想像は世界を包含する。」と言っているのであり、日本人であれば露天風呂で星々を眺めればよいのである。どうしてそれをしないのか。勉強のし過ぎで近眼になり、肉眼では星が全然見えなくなってしまったのか。これではあまりにも情けない。
 愚痴を言ったり、人をけなしてばかりいてもしょうがないし、これを読まれる方を不愉快な気分にしてしまうので、この辺で話を元に戻すことにしよう。

2 論理的説明はロゴスの世界
 さて、小生のどれだけかの流動的知性のもとに「レンマの論理」や「対称性の論理」から脳裏に湧いてきた「引きずり込もうとする力」や「すぼんだ」状態のことを、本論でいきなり書き始めても、何のことやら誰にも理解できず、誰も取り合ってくれないのは、明々白々である。かえって「新手の宇宙エネルギーか? うさん臭い話だ。よく似た新興宗教がどこかにあったぞ。」と、毛嫌いされるだけのことである。
 これを誤解のないよう、どうやって説明していったらいいのか。いろいろ考えてみても、つまるところ、理屈で、つまり「ロゴスの論理」に従って説明する以外に方法は見つからないのである。実は、これが小生の最大のストレスであった。
 理屈で説明しようと思っても、自分が持ち合わせている知識だけでは、とうてい不可能なのである。そこで、もう一度蔵書に目を通し、また、インターネットで検索して、既知の事実をいかにして繋ぎ合わせるかという作業に取り組んだり、間違った理論はどこがどう間違っているのかを説明するために、その理論をもう一度勉強し直したりと、悪戦苦闘を強いられるのである。消耗的な作業の連続であり、うんざりし、また、途中で説明しきれそうにもなくなり、投げ出したくもなった。
 しかし、有り難いことに幸運は続くものである。説明困難な大きな壁に何箇所も突き当たっていたのであるが、次々と3つもの幸運が訪れた。
 1つは、幾冊もない蔵書の中に、華厳経の「空」の思想がほんの一部しか取り上げられていなかったものの、その中に銀河の相互関連性を説明できる記述が偶然にも入っていたこと。
 2つ目は、哲学や論理学を高度に発展させたインド哲学であるからして、古代インドの哲学者が宇宙の根本原理について何か言っていないかと思い、その入門書を取り寄せたら、期待以上に豊富に出てきて、論理的説明に随分と助かったこと。
 3つ目は、「3次元ポアンカレ予想」に出くわしたことである。何気なくテレビのチャンネルを回していたら、これをNHKが特集番組で放映しており、これが目に飛び込んできた。後半しか見られなかったが、大きな助けになった。足らず前は、ネットで検索すれば必要な情報は得られるからである。
 こうした幸運に助けられ、やっとこさっとこ、どうにか説明できるところまでたどり着いたのである。そして、その説明文をこうして書いてきたのであるが、それでも、これを概ね完成させるのに半年もかかった。嫌になるほどの大変な難産であった。

 アインシュタインが、早々に直感して分かったであろう一般相対性理論を書き上げるのに、たぶん10年を要したのに比べれば、大きなことは言えないのであるが、自分で経験してみて、はじめて彼の苦労がしみじみと実感できた。よくもまあ、10年という長い年月を、根気よく証明作業に費やすことができたものだと。
 アインシュタインには、そういう並々ならぬ苦労があったがために、彼は、小生が求めるところの、新発見にたどり着いた思考方法までをも説明する気力が残っていなかったのかもしれない。
 それともう一つ、彼は敢えて説明しようとしなかったとも考えられないではない。それは、欧米の自然科学においては、「もの」を擬人化して考えることをタブーにしているからである。動物生態学において、類人猿でさえ擬人化を許さない傾向にある。ここが、日本と欧米の動物生態学への関わり方の大きな違いであるが、この分野において日本が最先端を行っているのは、日本人の学者が積極的に動物を擬人化して研究に取り組んできたことにある。
 これは、欧米の文化が一神教のもとに、動物を単なる「もの」として人間の下に置いて考えるのに対して、日本の文化は多神教のもとに育まれたものであるがゆえに、人間も動物も同じ「生き物」として同列に扱うこころがあるからであろう。
 こうした背景から、小生がしたように、類人猿どころか生き物でもない物質やエネルギーや空間を、人間と同質化したり擬人化して説明することは、欧米では決して許されないのである。
 もし、そんなことをしたら、精神障害者のレッテルを貼られる恐れがたぶんにある。従って、そんな危険を冒してまで正直に説明しようという気にはなれないであろう。序章で紹介したアインシュタインの名言の中にある「自分は狂っている、そう思わなければチャンスはない。」という言葉は、暗にこれを指し示しているようにも思われるのである。アインシュタインの発想も、きっと小生がしたと同じように、単なる「もの」を人間と同質化したであろうから。
 その点、小生は日本人であり、自然科学に擬人化を持ち込むことがどれだけか許される社会にいるから、こうした思考方法を説明し得た。かかる思想を取る小生は、幾分変人扱いをされるかもしれないが、精神障害者にされることはなかろうというものである。
 なお、「人間=もの」・「もの=人間」という同質化の思考方法が、いかに重要なものであるかについては、第2部において所々で詳細に取り上げ、これは決して精神異常ではないことを説明する。

 これで、第1部は終わりです。専門的過ぎる難解な文章が連続する中で、長時間にわたってお付き合いいただきまして深く感謝申し上げます。
 引き続き、第2部もよろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。
 → 第2部 数の文化と論理  第1章 アインシュタインに学ぶ 
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プロフィール

昭和23年9月生まれの団塊世代人。    本名:三宅和豊              住所:岐阜県羽島郡岐南町三宅5-246  農家の長男として育ち、工業系の大学を卒業後、岐阜県庁に技術屋としてではなく事務屋として就職した変人。21年間県職員を勤めて、中途退職。父親が始めた薬屋稼業を平成6年に継いで今日に至る。平成12年頃から稼業の傍ら、母親の農業を手伝うなかで、百姓の魅力にとりつかれる。士農工商すべての身分を浅く広く何らかの形で経験していることが唯一のとりえである凡人。              著書は次のとおり。順次ブログアップ中。  随筆「ヤーコンの詩」(平成18年3月)   論文「食の進化論」(平成19年4月)   論文「新・学問のすすめ」(平成20年4月)論文「犬歯の退化」(平成22年9月)

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