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第2章 数の文化と論理(第1~3節)

第2章 数の文化と論理

1 文化は宗教と気候に密接に関係する
 人の思考方法というものは、生まれ育った文化、特に宗教と密接な関係がありそうなことを、今までところどころで述べた。
 唯一絶対の一神教の文化の中で育ったことにより、その神を信仰しないアインシュタインであっても、光の速度を平気で唯一絶対なものにしてしまった。輪廻転生の世界観を持つ文化に育った小生は、それを恐ろしく思うし、また、光の速度は唯一絶対なものであっては欲しくない、でき得ることなら、光の速度も何かと相対であって欲しい、と願うのが正直な気持ちである。
 世界には様々な文化があり、相(あい)容れないものが多く、容易には融合することはない。積極的に理解しようと思っても、本質的に受け入れ難い部分が随分と多いからである。やはり、「三つ子の魂百まで」であり、融合しようと努力しても、なかなか馴染めるものではなく、無理やり相手に合わせて我慢する以外に方法はない。あとは、それに慣れようと鈍感力を養うしかないのである。
 そうしたことから、異民族が集合して住まうことになっても、可能な限り距離を置くしかなく、必要最小限の接触において、相手は相手の文化としてそれを認め、消極的にではあるが尊重するということで摩擦を避け、平穏を保とうとしてきた。
 もっとも、それぞれの文化も固定的なものではなく、その集団の社会経済の変化に伴って、変革を必要とする部分を必ず抱え込むことになる。こうしたときに、社会経済の変化も異民族との交流が原因することが多いのであるが、異民族の文化との接触を通して、そのときそのときに新たな文化が取り入れられることが多い。
 新たな文化の導入は、子供であれば無条件で受け入れられ、若者は理解と一定の努力でそれができるが、大人となると渋々従うだけであり、年寄りに至っては頑固に拒否する傾向が強くなる。
 そうした中で、民族間の摩擦が生ずると、それは国と国との緊張という形が多いが、国家というものはその本質において、また、年寄りが実権を握っていることもあって、旧態依然とした文化に凝り固まっており、自国の文化の主体性を維持せんとし、また、それを他国に強要せんとして戦争が起き、人々を巻き込むに至る。
 そして、相手の文化に対して、人のこころを、容認・尊重から蔑視・敵対へと変えさせてしまう。国家や保守的な民族主義者が様々な方法を駆使してそれを煽り、強いるから、なおいっそうエスカレートするばかりであり、現在の民族間紛争にその傾向が顕著である。
 こうして、世界のあらゆる文化は好むと好まざるにかかわらず、独自性を色濃く保持しようとする傾向にある。従って、文化には劇的な変化というものはなく、時代とともに少しずつ変容するだけのものである。
 これには例外もある。戦いに敗れた民族において、まれにではあるが最悪の事態が起きる。どこかの国の人々のように、自国の文化は全面的に間違っており、欧米の文化が絶対に正しいのだとされて文化の大改革が行われることがある。
 通常は逆であり、国粋主義者が、我が民族の偉大なる文化を守れとばかり、教宣活動を強め、必死の抵抗を示すのである。
 ただし、このことは、主義主張は良いものの、敗戦国の国内において、占領軍に対するゲリラ戦が付き物となる。秩序は回復せず、いたずらに混乱を招き、いつまでも平穏さを取り戻せず、いつになっても平和が訪れないのであるから、決して褒められたものではない。全面降伏のほうがまだましである。
 しかし、軍事や経済において全面屈伏したとしても、その固有の文化までも放り投げるのはいかがなものであろうか。
 人間は社会的動物であり、それぞれの集団で人間関係を構築し、その枠組みの中でしか生きていけない。その枠組みの全てが文化であり、それぞれの集団が営々として築き上げてきた固有の文化を否定し去ることは、その集団の人間社会を崩壊させるだけである。
 異質な文化で全面的に置き直しをしようとしても、先に述べたとおり決して馴染めないものでもあり、また、面食らってしまう。加えて、導入した文化を間違った理解のもとに、おかしな文化を誕生させることになって、その社会に悲劇を生み出すだけである。
 日本の戦前の文化で、確かに自己矛盾を起こしていた部分があった。例えば、現人神である天皇による支配の容認と、民主主義に基づく成人男子の参政権の両立である。こうした文化は、欧米並みにすっきりさせなければならない性質のものであり、そうなったから、これはこれでよしとしていい。しかし、それ以外のもので改めねばならないものが、どれだけあっただろうか。明治維新以降の文化大改革で、十分過ぎるほどに変革していたのではなかろうか。

 文化には正しいも間違いもない。どの文化も、それぞれの生活環境に最も適した文化が育まれてきたのであり、文化は、生活環境により単に相違があるだけであって、高度な文化や遅れた文化があるわけではない。
 かえって、高度な文化であるやに言われる今日の先進諸国においては、資本主義経済の弊害である拝金主義崇拝の風潮がはびこり、これが人間性を喪失させる方向へ向かわせ、文化にゆがみを生じさせており、決してほめられたものではない。
 また、こうした国々においては、民主主義の名のもとに中央集権体制を確立させたことにより、国家による巧妙な支配があらゆる面で隅々まで浸透して、国家にとって好都合なように地域文化の均質化さえも進められている。これは日本において顕著であり、これからは地方の時代であると声高に叫ばれているが、空回りしている感が拭えない。
 こうしたことから、世界的に、そして特に日本において、営々として築き上げられてきた、その地その地の固有の文化が大きく揺らぎだしており、人々が息苦しさを感ずるに至り、これに危機感を持った人たちは、人間性の獲得と地域文化の保持・高揚に大きな努力を傾注し始めている。

 いずれにしても、どんな文化も、その文化は社会経済の変遷に伴って生ずる内なる摩擦や軋轢を乗り越えんとして、もがきつつも、こころの豊かさを求めて、人間本来の人間性に基づく崇高な倫理観でもって、平穏な社会の構築を目指してきたと信じたい。
 これは、太古の昔から延々と続けられてきたことである。古来より、そのときそのときに、その地その地で、それぞれの哲学、思想、宗教といったものが登場し、人々に大きな影響を与え、それが社会に組み込まれて固有の文化が醸成され、また、それが時代とともに変化していったのは事実である。そうしたことは、将来にわたっても続けられていくことであろう。
 これは、人間社会だけではない。類人猿でもそうであり、例えば、ゴリラの文化は、4つの生息域のそれぞれの生活環境の違い、特に気候の違いにより、4つの異なる文化がある。彼らには思想や宗教はなさそうだが、少なくとも哲学は持っている。その文化は、人間に負けず劣らずの崇高なものを持っており、思いのほか人間に近くて驚かされるが、本論ではそこまで広げないものの、人間社会にあっても、その文化の本質は、生活環境の相違、特に気候の相違によって大きく左右されていることは事実である。
 まず、このことを理解しないことには、他の民族の文化を正しく評価することができないし、容認も尊重もできないのである。
 そうした理解と評価の中から、我々が守らねばならない重要な文化が何であるのかが浮かび上がってくるのであり、また、我々が学ばねばならない崇高な異文化というものも見つかるのでもある。加えて、我々が当たり前のこととして全く意識していないものが、実は、素晴らしい文化であることが発見されもする。
 そして、それらをつかむことにより、文化のゆがみが正されて、人々が息苦しさから脱却できる、今日の社会経済に適応した、崇高な文化の構築へ歩を進める道が開けることになるに違いない。
 そこで、様々な文化について、歴史や生活環境全般についてまで調査研究することが重要なものとなるが、それは小生の手に余るものであるから、特に影響が大きいと考えられる気候の違いと、そこに根づいている宗教に絞って、どのような文化が生まれ出てきたのかを見てみることとする。そして、そこでは、どのような思考方法が取られているのかについて、特に注目してみたい。

 地球上の各地の気候は、千差万別ではあるものの、代表的な6つの文化を取り出して、その気候により、その文化にどのような特徴が出てくるかについて、少々掘り下げて検討することとする。
 最初に、「6つの文化」の、「6つの気候パターン」を示しておこう。

 1の文化  ユダヤ人   乾燥
 2の文化  西欧人    乾燥・湿潤(温暖・寒冷)
 3の文化  日本人    寒・暑とその中庸
 4の文化  インド人   寒・暑・乾・湿
 5の文化  中国人    寒・暑・乾・湿・薄い空気
 0の文化  狩猟採集民  無変化

2 「1の文化」のユダヤ人
① 唯一絶対の神の誕生
 まずは「1の文化」、唯一絶対の「1」である。これは、アインシュタインが生まれ育った、ユダヤ教の文化である。
 ユダヤ人のこころの故郷であるパレスチナは、その昔、アフリカ大陸とユーラシア大陸を結ぶ交通の要衝であり、加えて、トルコまで連なる地中海沿いの山脈は、海抜1000m以上の所にはレバノン杉が、その下部にはナラなどの樹木が生い茂っており、この豊かな森の保水力のお陰で、平坦部は果樹や麦の自生地が広がり、今日では想像がつかないほどに植生が豊かな肥沃な土地であった。
 2万3千年前に、麦をすり潰して作った生地を炉で焼くという食文化が誕生した地であり、それだけ人口密度が他の地域よりも早く高まったと言えよう。それまでは、調理が面倒だから食べようとしなかった穀類を、主食に加えねばならなくなったからである。
 パレスチナに人が集まり、新たな技術が生まれ出たのであるから、ここは原初文明が最も早く誕生した地のようである。
 時代が進み、1万年以上前には、パレスチナはじめ中東では、農耕による小麦栽培が始まるとともに、羊や山羊の家畜化に成功し、牧畜も始まったと思われる。そして、ナラなどの伐採が始まった。この時点までは、当地でも当然ながら、様々な神々を崇拝する多神教の文化が長く続いていたと考えられる。山の神、森の神もいた。
 この地域のその後の環境変化と宗教の変遷について、安田喜憲氏がその著書「環境考古学のすすめ」(丸善ライブラリー)の中で詳細に語られているので、それを小生なりに要約して紹介しよう。

 山脈の東側では、既に7000年前に大きな環境変化を示していた。レバノン杉の森が消失したのである。地層の花粉分析でそれが分かる。レバノン杉が伐採された跡地には、杉の種が芽吹き、自己再生しようとするのであるが、そこには牧畜で数を増やした羊や山羊がやって来ており、杉の若木の葉や芽を全て食べてしまい、種が尽きて、ついには森は再生不能となってしまった。そして、森であった所の土壌は雨で流され、岩肌が露出し、いかなる木々も育たなくなってしまった。今日の地中海沿岸の山々が皆そうであるように。
 古代文明が誕生し、その文明の高まりとともに、レバノン杉の山脈は、一気に荒廃したのである。山脈の裾野の民族だけがレバノン杉を使ったのではない。遠く離れたエジプトそしてメソポタニアの王国までもが、レバノン杉を狙ったのである。
 それほどまでにレバノン杉は価値が高かった。それは世界一の高級木材であったからである。非常に硬い香木であり、古代エジプト王朝では宮殿、家具、戦艦に盛んに使われた。メソポタニアの王国に至っては、レバノン杉を2000Kmもの距離を運んで、宮殿を造ったくらいである。
 文明が進むとともに、周辺の列強集団は、残り少ないレバノン杉の確保のために入れ替わり立ち代り、その山脈沿いの地域に侵略を繰り返すこととなった。
 そして、レバノン杉の皆伐は、山裾や平野にも多大な影響を及ぼした。山の保水力の喪失で、山裾や平野に草木が育たなくなったのである。長い乾期があり、雨期でもそれほど雨量の多くない地域であるから、行き着く先は、現在の姿のとおり、禿山と痩せた草原そして砂漠化である。
 森林が喪失すれば、山の神も森の神も当然にして人々のこころから消え去る。発見されている、世界で最も古い古文書である「ギルガメシュ叙事詩」の中に、「レバノン杉の森には森の神がいて、そこへ行ったら殺されるから止めておけ、という忠告を無視して、人々のためにはそれを切らねばならないと、森の破壊を始めた。」と書かれている。正に神殺しである。
 また、豊かな森や野には蛇が多く住んでおり、蛇信仰は日本にも数多くあるが、この地や周辺一体でも強かった。住まい屋では穀類を餌とするネズミを食べてくれるから家の守り神になり、脱皮して生まれ変わる様子から病を治す神となる。また、長時間絡み合って交尾する様から子造りの神であり、これは豊穣の神に繋がる。
 しかし、荒廃した地には蛇も少なくなり、蛇を神として崇める御利益も消えていく。逆に、その後、蛇は悪神のシンボルにされ、最後には主神となった嵐に神に殺されるのである。
 地中海式気候では、冬雨の到来が農耕の始まりであり、それは嵐によって始まる。山に保水力がなくなってきているから、天からの雨だけが頼りで、ひたすら嵐の到来を待ち望むことになり、嵐の神がことのほか重要性を増すのは必然である。ギリシャでは嵐の神ゼウスがトップの座に就いたし、シリアのバール信仰もそうであり、他の地域も同様であった。
 このようにして、人々は次々と神殺しをしていき、これらの地域では、時代が進むとともに神の数が減り続け、次第に嵐の神が力を付けて主神となり、最後には唯一神となった。(引用要約ここまで)

 安田喜憲氏は、ユダヤ教のヤハウェも嵐の神であって、それが唯一神の座に登りつめたと言っておられ、後ほど引用する「森林の思考・砂漠の思考」(NHKブックス)の著者・鈴木英夫氏も、その立場に立っておられる。
 一方、加藤隆氏はその著書「一神教の誕生」(講談社現代新書)の中で、ヤーヴェ(ヤハウェ)はユダヤ人特有の救済神であって、紀元前10世紀のソロモンの時代、そして、それに続く南北王国時代には、バアル(バール)信仰や他の神の信仰もどれだけか力を付けていた事実があると言っておられる。
 小生も、加藤隆氏がおっしゃるように、ヤーヴェは救済神であると考えるのであるが、上にあげた加藤隆氏の著書の中から、そのあたりの要旨を紹介しておこう。

 パレスチナに住んでいたユダヤ人部族の全てがエジプト王朝によって滅ぼされ、奴隷としてエジプトに連行された。
 紀元前13世紀の「出エジプト」は、当時のエジプト第19王朝のもとで奴隷にされていたユダヤ人が、モーゼの指導のもとに大挙してエジプトから脱走した事件である。そして、半世紀ほど砂漠で放浪の民として暮らした後、現在のパレスチナである「カナンへの定着」を果たしたのである。
 この段階で、ヤーヴェが救済神として大きな地位を占めたのである。その後、ユダヤ人の王国が建設され、紀元前10世紀には「ソロモンの繁栄」があり、ソロモン王の死後、王国は南のユダ王国と北のイスラエル王国に分裂した。
 この時代にはバアル信仰もあり、ヤーヴェという救済神も御利益的宗教の性格をどれだけか残していた。
 ところが、紀元前8世紀に、イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされ、残ったユダ王国は独立を保ったものの、アッシリアの属国にされてしまった。そうなると、民族独立の危機であり、ヤーヴェという救済神をないがしろにしてはならないと、ユダ王国で一神教的態度が成立する。
 ここに「契約」の概念が導入されて、「罪」の意識が生じた。契約とは、人が神を崇拝し、神は人を救うという、権利義務の関係である。北王国の滅亡は、神の前での人の態度が不適切(ユダヤ教で言う「罪」のことで、原義は「的はずれ」)であったがために、神は沈黙し、動かなかったと考えたのである。
 これを決定的にしたのが、紀元前8世紀のバビロニアの侵略によるユダ王国の滅亡である。生き残ったユダヤ人はバビロンへ連行されて半世紀にわたり捕囚となった。そのバビロニアがペルシャによって滅ぼされ、ペルシャは各民族に広い自治権を与えるという政策を取ったので、「バビロン捕囚」はパレスチナへ戻ることができた。ユダヤ人は再び救済されたのであり、ここに完全な一神教が成立し、その後、ヤーヴェは創造神の性格も持つようになった。(引用要約ここまで)

 先に見解の相違を示しておこう。加藤隆氏は、ヤーヴェ救済神が創造神の性格を持つようになった時期は紀元前8世紀のバビロン捕囚より後と言っておられる。それに対して、鈴木英夫氏の主張は次のとおりである。

 紀元前10世紀のソロモン王の経済活動が、西北インドまで及んだのは事実であり、その時点以降に、インドの宗教に初めて創造神の考え方が生じたが、それは、ユダヤ教の唯一神の天地創造の概念の影響を受けたとしか考えられない。また、ユダヤ教がそのような形になったのは、出エジプト後からパレスチナに定着する前の間であり、定着後に、ユダヤ人が征服した在住民族の多神教が混入して、ユダヤ教の純粋性が失われかけたに過ぎない。(引用要約ここまで)

 どちらが正しいか小生にはよく分からないが、ヤーヴェ救済神が早い時期に創造神の性格もどれだけか併せ持っていたのであろう。ユダヤ人には救済神との意識が強かったものの、他の民族にとっては、ユダヤの救済神は彼らユダヤ人だけのものであるからどうでもいいことであったが、自分たちが持ち合わせていなかった創造神という概念については、目新しいものとしてインパクトが強かったのではなかろうか。それで、周辺地域では、自分たちが持ち合わせていなかったところの創造神の考え方を取り入れたと考えたい。

② 生き延びる道は「ただ1つ」しかない
 では、本題に入ろう。この一神教のもとでは、その文化は宗教の影響を強く受け、「唯一絶対」という「1の文化」が必然的に卓越することとなる。ユダヤ人は、ユダヤ教のもとに「選民思想」を持っており、そこには「ユダヤ人」と「非ユダヤ人」という2種類の相(あい)対する人々が存在するように部外者には思えるが、彼らにしてみれば、「非ユダヤ人」は相対する存在ではなくて、加藤隆氏の言葉を借りれば、単に「思いがけなく存在している」だけであって、人の存在についても「ただ1つ」と考える文化なのである。
 第1部で取り上げたアインシュタインの宇宙モデルにおいて、彼が宇宙に存在する物質をガスに特化させて、恒星や惑星は「思いがけない存在」として無視し、一定不変の宇宙モデルを作り上げたことを紹介したが、これは、正に、この文化による思考である。
 また、アインシュタインが、光の速度のみを唯一絶対とし、絶対とされていた時間、空間、物質、エネルギーの全てを相対なものとして捉えて相対性理論を完成させたのであるが、絶対なものは「ただ1つ」しかないとする唯一神の根本原理に根差した思考から生まれたものであることは言うまでもない。

 パレスチナ以外に住むユダヤ人をディアスポラのユダヤ人と呼ぶが、これは「バビロン捕囚」となった者たちの一部が解放後もバビロンに残ったのが始まりであり、その後、世界各地でディアスポラが発生し、今日まで続いている。
 彼らは、歴史上、その地を支配する国家や民族から虐げられ、土地の所有の禁止などの財産制限をはじめ、様々な差別をずっと受け続けてきた。そのために、生き長らえていく処世術は「ただ1つ」、それは「銭」を貯めるしかなかったのであり、他に選択肢はない。必然的に、商業や金融という直接的に「銭」に関係する経済分野が彼らの主な職業となったのである。
 なお、彼らが全財産没収の上、追放でもされたら、それは度々起こったのであるが、彼らに残された財産は、頭脳でしかなくなる。一から出直し、高度に培われた頭脳でもって、再び「銭」を稼ぎ始めるしかないのである。従って、ユダヤ人は非常に教育熱心であり、幼児教育からして質的に高いものを持っており、単なる詰め込み的に知識を得させるのではなく、考える力を養わせるのである。
 その教育力は、今日のノーベル賞受賞者数に現われている。ユダヤ人の受賞者は、ディアスポラに多く、経済学賞(正式なノーベル賞ではないがそれに含まれることが多い)は全体の65%が、生理学・医学賞は23%が、物理学賞は22%がユダヤ人である。推定で1300万人という、世界人口の0.2%しか占めないのに、これだけの受賞者を出すという頭脳集団を形成しており、やはり「銭」に直接関係する部門が目立つことに注目したい。そして、今日、世界の金融は、ユダヤ人に牛耳られているとさえ言われているほどであり、彼らが生き長らえていくには、ただ1つ、「銭」しかないという「1の文化」を貫徹する以外に選択する道はないのである。

③ 水場に至る道は「ただ1つ」
 こうした「1の文化」が生まれる根底にあるのが、パレスチナや中東地域の象徴的な「乾燥」気候ではないかと思われる。
 砂漠においては、移動の途中で道が分からなくなったとき、目指すオアシスはどの方角にあるのか。道を間違えれば確実に死が待っている。こうした場合には、「ただ1つ」この方角しかないと断定する以外に方法はないのである。こちらにしようか、あちらにしようかなどど悠長なことを言っておられるわけがない。
 パレスチナは砂漠ではないが、「出エジプト」の頃にラクダの家畜化が成功し、ユダヤ人がパレスチナに入る前の数十年間は、砂漠での遊牧生活を余儀なくされたようである。また、ソロモンの繁栄も、砂漠という海を渡るユダヤ人のラクダの商隊が活躍したからであって、彼らは砂漠の民を長く経験していたのである。
 さて、ここで重要なのは、乾燥地帯で欠かすことができない唯一のものが「水」であり、これは、他のものと比較することができない絶対的なものなのである。
 要るものは「ただ1つ」、それは「水」である。
 パレスチナ紛争の和平交渉の中で、イスラエルはガザ地区などに自治権を与えたが、水利権だけは決してパレスチナ人に与えていない。自治区の中であっても、新たに井戸を掘ることは、イスラエル政府の許可制であり、基本的にはこれを一切認めていないのが現状であり、実質上、パレスチナ人に生活権はない。
 このように、日本人からみると、想像を絶するほどの「ただ1つ」の貴重な「水」という位置付けがなされており、その社会全般にわたり、唯一絶対という思考・思想・宗教が卓越していくのである。
 この「乾燥」が特に厳しいアラビアやその周辺地域で、アラーの神を唯一神とするイスラム教が支配的になったのも当然のことである。この地域におけるイスラム世界も「1の文化」である。
 現在のパレスチナ紛争は、「1の文化」と「1の文化」の激突であり、悲しいかな解決の糸口が全く存在しない永久戦争である。

 ここで、キリスト教の文化であり、本質的には「2の文化」である西欧の文化の中に見られる「1の文化」の例を、鈴木英夫氏の著書「森林の思考・砂漠の思考」から抜粋して紹介しよう。

 まちがっても教えるドイツ人
 ……私はドイツで生活をしている時に体験した。知らない町へ旅行すると、駅へ行く道はどこですかと聞くことがしばしばある。するとドイツ人は後ろへまわって、両肩に手をあて、私の体の向きを変え、こっちへ行けば駅ですと教えてくれる。
 だが、少なくとも2度……結果的に間違った方角であったことがある。もちろん、教える道がいつも間違っていたというわけではないが、それだけ、はっきりとした態度で教えられた方向が違っているというのは、私にとって大きな驚きであった。
 日本人ならば、そんな場合には「この辺のことはよく分かりません。」と言うであろうし、ある程度知っているような場合でも、「えーと、こっちだと思います。」といったように、断定的な表現を避けることが多いと思う。
 ……ドイツは、たまたま、私が生活をした所の例としてあげたのであるが、この態度、あるいは少なくとも、その表現は、欧米人に一般的なものではないかと思う。そして、その行動様式を取らせているものは、キリスト教なりユダヤ教の思考方式で、……欧米諸国は、かならずしも砂漠ではないけれど、それらの宗教が砂漠あるいは砂漠の縁辺で生まれたものであるが故に、砂漠的性質を持っているためであると思う。
 その砂漠的性格というのは、砂漠では、物事をはっきり分けるということに由来する。……砂漠では、ある道が水場に至る道であるかそうでないか、どちらであるかと常に二者択一的に断定せねばならない状況から生まれた思考方法であると思う。(引用ここまで)

 少々補足しよう。くどいようだが、鈴木氏の「水場に至る道」の例は、「1つ」しかないと断定する思考である。
 「二者択一的に…」の記述により、「2つを対比する」思想のように錯覚もするが、これは、「イエス」か「ノー」か、いずれかの選択を求めるものであり、2つを比較対照するものではない。
 なお、この「肯定」と「否定」の2つしかない「2項論理(=ロゴスの論理)」が、今日の高度文明社会においては、あまりにも多用され、これが様々な弊害を生じさせるもとになっている。この問題については、折に触れて取り上げることとする。

3 「2の文化」の西欧人
① キリスト教の誕生
 前節で、「1の文化」の例としてドイツ人をあげたが、基本的には、西欧人は「2の文化」であると小生は考えている。
 これには、ユダヤ教と性質を異にするキリスト教の文化が深く影響していると思われる。そこで、ユダヤ教から派生したキリスト教の誕生とその後の展開をもう少し見ておくこととしよう。
 ユダヤ教の誕生の経緯については、先に紹介したが、ユダヤ教もその後、どれだけか変化している。それを含めて先にあげた加藤隆氏の著書「一神教の誕生」から要点を紹介しよう。

 「バビロン捕囚」は、ペルシャの許可を得てパレスチナへ戻ると、第2神殿の建設(神殿の再建)とともにユダヤ教の聖書の編纂に着手した。これによって、神殿での儀式に重きを置くサドカイ派と律法(3部からなる聖書の第1部を言い、いわゆるモーゼ5書)主義のファリサイ派が生じ、対立していった。
 こうした中から、かかる状況では神との直接的な関係は実現できないとして、荒野で共同生活するエッセナ派が誕生した。
 ユダヤ教各派ともに、神の前での民の態度が不適切であり、「罪」の状態であるがゆえに、神との断絶が起きているとの共通認識があったが、エッセナ派は、神の前での正当性をいかにして作り出そうかと厳しい模索を行った。そこでたどり着いたのが、神との断絶は絶対的なものであり、民の側からは何もなす術がなく、可能性として残ったのは、神の意志で神が一方的に動くというものであった。結論に達したエッセナ派は、その後、勢力を衰退させ、消滅していく。
 エッセナ派が消滅する少し前に、その影響を強く受けたイエスの活動が、ナザレ派としてエルサレムに登場する。活動形式は、移動しながらの共同生活で、財産は共有であり、いわゆるセクト集団である。
 イエスが主張したのが、「<神の支配>の現実の告知」である。エッセナ派がたどり着いた結論を飛躍させたものである。
 これにより、神の前での「罪」は、全く意味を持たなくなってしまい、反神殿主義・反律法主義を鮮明にした。
 そして、イエスは、神殿批判の一環として、神殿境内の売店の陳列台をひっくり返すという暴挙に打って出た。この直接行動が契機となって、紀元後30年頃にイエスが処刑された可能性が高い。なお、イエスの活動はわずか1年間、多くても数年間であったようである。
 イエスの弟子たちは、その後もエルサレム共同体を維持して共同生活を続け、信者を増やしていった。その活動の中で、最大の特徴は、イエスを「神格化」させたことにある。「イエスの復活」という「奇跡」があったという主張である。
 これにより、「人であるイエスに」ではなく、「神的な権威があるイエスに」従うことが求められた。あまりの論理的飛躍であり、ユダヤ教当局は、当然にして「イエスの名において語る」という布教活動を繰り返し禁止しようとした。
 その後、信者の増加とともに共同体生活が困難になり、ナザレ派は四分五裂する。イエスの正統の流れを汲むヘレニスト派が過激な反神殿主義を取ったがために追放された以外は、ユダヤ教当局に包容力があり、かなり自由な活動が可能であった。
 そうした中で、「神格化されたイエスの支配」はイエスの権威を背景にした「指導者たちの支配」になっていった。
 指導者たちは、例えば、我々は「精霊」に満たされているとし、この世において「神のようであることを神から認められた者」であるといった主張を行った。加えて、ユダヤ教主流派との摩擦を避けるため、神殿や聖書を方便として認める功利的な態度を取るようになった。
 しかし、紀元後70年のローマ帝国に対するユダヤ人の反乱が失敗に終わり、第2神殿が破壊された。これにより、ユダヤ教が律法主義一色となり、相(あい)容れないナザレ派は、パレスチナから追放されてしまった。
 そうなると、ナザレ派は、もはやユダヤ教の一派ではなくなり、ここにキリスト教としての活動が始まったのである。
 ここで、「キリスト」とはどういう意味かについて触れておこう。「イエスは××だ」と様々な言われ方がある。その一つがキリストであり、これはギリシャ語であって、ユダヤの古語ヘブライ語では「メシア」である。その意味は「頭に油を注がれた者」であり、ダビデ王朝時代に王の即位式の際に「頭に油を注ぐ」という儀式があり、この儀式を行うことによって、ダビデ王は「神の子」とされたことに由来している。
 「イエスは××だ」と強調することは、一般の信者向けの便法であって、キリスト教にとって本質的に重要なのは、「<神の支配>の現実の告知」であり、従って、「神格化されたイエス」の意義も限定的なものである。
 キリスト教の布教が進むにつれて、聖書主義・儀式主義が採用され、新約聖書や教会が作られていった。なお、キリスト教の教会は、ユダヤ教のシナゴーグ(会堂)の模倣である。
 そして、契約や罪の概念も流用されるようになり、いつしか旧約聖書も聖典とされるに至った。それでも、聖書は絶対的な権威としての扱いではなく、様々な教義も補助的なものであって、変更も有り得る性格のものである。(引用要約ここまで)

 以上が加藤隆氏の著書「一神教の誕生」の部分的な要旨である。
 こうした歴史というものは、どこまでが真実なのか、甚だ疑問なところがあるものの、時代の流れを読み取ることは可能であると思う。キリスト教の本質も、ここに書かれていることで、概ね間違いなかろう。
 少々脱線するが、ユダヤ教の宗派間の対立の中で、小生が奇異に感じたことが1つある。それは、紀元前そして紀元後しばらくの間は、ユダヤ教当局が何と寛大であったかという点である。たしかに、イエスは処刑されたが、それはイエス個人の破壊行為を罰しただけであり、ナザレ派はその後も自由に活動できたのであるからだ。
 他の文献からも、それは推し量られる。紀元前において、ユダヤ教各派は激しく神学論争を行い、非論理的妥協を許さなかったようであるが、決して宗派間の戦争は起こしていない。また、聖書主義のファリサイ派の内部でも当然に意見の対立があったものの、様々な考え方があるのを容認し、これを尊重したようである。というのは、聖書編纂にあたって、相(あい)矛盾するものまでをも相当に入れ込み、仏教思想の「空」の概念さえも認めた。たとえ異教の教えであっても、真面目に取り上げて議論し、採択したのである。
 これは、何もパレスチナだけではない。古代ギリシャにあっても各派の哲学者は議論を戦わせただけであるし、西北インドにおいても各派の哲学が生まれ、その後釈迦の時代には多くの思想家が現われて宗教が形成されていったが、単に論戦しただけである。加えて、仏教においてはユダヤ教の唯一神の考えを取り入れもした。
 こうした紀元前の人たちの、あまりの包容力の大きさに驚かされるのである。現在の我々には信じられない態度である。
 これは日本においてもまたしかりであり、聖書と同様なことが、のちほど紹介する日本書紀の神話の記述の仕方にも現れているし、また、福沢諭吉の「学問のすすめ」、これものちほど紹介するが、その中で「進歩して真理に達するの路は、だだ異説論争の際にまぎるの一法あるのみ。」と、論争の重要性を謳っている。
 このような観点で歴史の流れを眺めてみると、「おおらかさがある一方で、どんな意見も徹底的に論議する」という風潮がよしとされ、かつ、それが保証される時代において、はじめて哲学、思想、宗教そして科学が、正しく、大きく発展しているということを思い知らされるのである。
 21世紀にある今日、平等の観念が高まり、安定した民主主義制度のもとにある先進文明社会において、はたしてこうしたことが保証されているのか、甚だ疑問に感ずるところである。

② 2重構造の西欧社会
 地中海を支配していた古代ローマ帝国は、ギリシャから移入した神々による多神教の世界であったが、やがてキリスト教を国教にした。アルプス以北についても、それぞれの多神教を捨ててキリスト教を受け入れた。こうして、西欧はキリスト教社会となった。
 しかし、完璧な一神教化ではない。現在でも各地に在来の信仰をどれだけか残している。キリスト教と相(あい)反するものさえある。
 例えばドイツでは、聖書において邪悪とされる蛇が医者や薬屋のシンボルになっており、蛇信仰は今でも健在である。これは、アルプス以北の自然環境が、深き森であったことが原因していよう。
 その地その地によって、こうした細々とした特殊な信仰が残っているとはいえ、所詮、強いものが勝つのであって、生活環境が厳しければ厳しいほどに、その争いの中で、神々のうちの誰かが主神になり、弱い神は順次抹殺され、最後には唯一神しか残らなくなるのは、人間社会の争いと共通している。
 西欧において、唯一神を信仰するキリスト教が定着し得たのも、度重なる寒冷化による食糧難や相互侵略により、厳しい生活環境に何度もさらされたことが最大の要因になっていると思われる。
 そうすると、西欧社会における文化も、ユダヤ人と同じ「1の文化」になってしまいそうであり、先に例としてあげた道案内のドイツ人のように、当然にして「1の文化」もある。しかし、西欧社会の基本構造を見てみると、ユダヤ人社会とは全く様相を異にする。西欧社会は、何もかもが2重構造になっている感が強いのである。
 ユダヤ人は1つの民族としての団結力が強く、民族内差別がないのに対し、西欧では民族内差別が甚だしい。
 こうした2重構造が生まれ出た歴史を簡単に見てみよう。
 まず、宗教のあり方に違いがある。ユダヤ人の場合は、生まれながらにしてユダヤ人はユダヤ教徒であり、非ユダヤ人は「思いがけない存在としてある」だけであるが、キリスト教の場合は、布教という活動からして、当然に「信者」と「非信者」が相(あい)対するものとして認識される。加えて、先に紹介したように、神との関わりにおいて「聖職者」と「信者」との2階層に明確に区分される。
 そして、キリスト教が誕生する前に、既に国家が成立していたのであるが、その国家において、西欧では支配民族の「市民」と従属民族の「奴隷」という2重構造がずっと続いた。そして、中世にあっては、同一民族において「貴族」と「農奴」という2重構造が産業革命まで長く維持された。さらに、産業革命後は、資本家である「ブルジョアジー」と農奴から工場労働者になった「プロレタリアート」という2重構造が、強く意識されるようになった。
 産業革命の成功と科学技術の進展そして教育の高度化により、西欧社会のあらゆる2重構造は不明確になりつつあるものの、上流階級はあくまで上流階級の間での閉鎖社会に閉じこもろうとしており、根っこの文化は、いまだ2重構造から脱してはいない。
 端的な例として、今日でも、労働とは「卑しい階層」の者がするものであると考えているから、「富裕層」は決して働こうとはしないし、そうでない者も年金生活に入ったら一切働こうとはしない。
 こうした社会構造からして、絶えず相(あい)対する2つを並べ立てて、それを意識するという「2の文化」が卓越する社会が形成されてきた感が強い。
 こうしたことから、何かを決断する場合、はっきりとした「二者択一」の考えが、盛んに取られるようになったのであろう。
 これはアンケートの結果にもよく現われている。日本人の場合なら「分かりません」とか「どちらとも言えない」といった、宙ぶらりんな選択肢にかなりの比重が占められるが、西欧においてはどちらかに決断する傾向がはっきりしている。また、2種類の果物の好きなほうを選択させると、日本人の場合はなかなか決めようとしないが、西欧人は迷いなく直ぐに選ぶ。国政選挙においても、日本ではどちらか決めかねる無党派層が随分と多いが、西欧では相(あい)対する2つの政治信念のどちらかをはっきりと選択する傾向が強い。

③ 2つに区分された明瞭な気候
 さて、この文化と気候との関係を考えてみよう。ユダヤ人の「1の文化」の根底にあるのが「乾燥のみ」という気候であるのに対し、西欧の「2の文化」の根底をなすのは、次の気候であろう。
 西欧において、最初に文明が高まったのが地中海沿岸部であり、その気候は、地中海式気候の最大の特徴である、明確に区分された夏季の「乾燥」と冬季の「湿潤」である。秋が深まった頃になると、乾ききった大地に嵐とともに雨が降り出して雨期が訪れ、そこで小麦の種を蒔くのである。嵐の到来が1年の始まりであり、それが遅れればただぼんやりとしているしかなく、あまりにも遅れるようなら雨乞いである。ひたすら嵐がやってくるのを祈るしかない。そして、雨期が終れば麦穂が実って収穫となる。夏場は乾燥が長く続き、得られる物は乾燥に強い果物のみとなる。
 このように、メリハリの利いた2つの気候が、収穫物も全く違ったものにし、「2の文化」を作り上げたとも思えるのである。
 その後、古代ローマ帝国の時代になると、文明の進んだ「森のない明るい」地中海世界と、文明化が遅れた「森で覆われた暗い」アルプス以北の世界という、2つの世界の交流、それは度々起こった侵略を含めてであるが、全く異なる文化を持った2つの世界があることを強く意識するようになる。
 そして、南の地中海世界は「温暖」であり、アルプス以北の世界は「寒冷」であるという、大きな気候の差があり、両者の交流の中で、別の形で新たな「2の文化」が生まれ出たと考えてよかろう。
 なお、現在は北もけっこう「温暖」であるが、この200年程度は過去2千年における11~12世紀にかけての高温期に匹敵する状態にあるからであって、歴史的には、年間の平均気温が今より数度低かったことが度々であり、北から南への侵略は、ひどい寒冷期に繰り返し起こったのが歴史上の事実である。
 以上のとおり、西欧では「社会の2重構造」と「2つの気候」が相まって「2の文化」が構築されたと考えられるのである。

④ 米国文化の特殊性
 ここで、米国文化についても触れておこう。米国は、西欧を中心にヨーロッパからの移民が支配した国であり、その文化を引きずってきているから、実質的には西欧と全く同じ「2の文化」である。
 その中で、西欧と米国で大きく異なる文化がある。米国は、貧者の開拓により築かれた文化であり、富者(非労働者)と貧者(労働者)との2重構造が生じなかった。
 米国は、フロンティア・スピリット=開拓者魂がずっと語り継がれてきた社会である。それによって、本質的に備えていた労働を卑しいとする感情を抑圧し続け、今日では、アメリカン・ドリームという姿に代わり、「労働は成功への道」と受け止める新たな文化が醸成された。もはや労働を卑しいものとは決して考えない。そして、富者となった者は、西欧の上流階級の気品にあこがれを持つものの、勤労意欲は旺盛なまま維持し続けている。これが、米国の繁栄を不動なものとする大きな原動力になっていると思われるのである。
 このフロンティア・スピリットの文化は、思わぬところへ大きな影響を及ぼした。

⑤ 福沢諭吉の「学問のすすめ」
 ここで、少々脱線するが、本書の表題との絡みもあり、明治5年にその第1編を著した、福沢諭吉の「学問のすすめ」を詳しく紹介しておこう。これが、実は米国のフロンティア・スピリット文化の大輸入なのである。
 その冒頭は、かの有名な文言、「天ハ人ノ上に人ヲ造ラズ、人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ…」で始まる。これは、諭吉が政府使節団の一員として渡米し、そこで経験した、米国の民主主義を指していると一般に言われでいるのだが、決してそうではない。
 諭吉が言っているのは、フロンティア・スピリットのもとに、生き生きと経済活動に励んでいる米国人の様を見知って、日本人もそのようにならねばならぬ、ということであった。その根底には、そうしなかったら、日本は欧米列国の植民地にされてしまうという、危機感があったのである。
 そして、その当時、新産業の起業はほとんどが官業であり、民間の起業が遅々として進まず、そのいらだちが強かった。何とかして、今風に言えばベンチャービジネスを、日本のそこらじゅうで立ち上がらせねばならないという、切迫感が強かったのである。
 しかし、米国の例をそのままストレートに紹介しても、庶民にはわけが分からないので、当時の日本の富裕層がどうしてああも銭が稼げるのか、貧乏人はどうしていつまでも極貧なのかを、皆が知っている例えを織り交ぜながら、つまるところ「学」がなくしてはどうしようもないことを、次のように諭したのである。
 
 貧富の差、雲…泥…の相違あるは、実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚かなりとあり、…学ぶと学ばざるとによって差が出来るものなり、…難しき仕事をする人は身分重き人で、貴ければ自ずと富む。やすき仕事をする人は身分軽き人と言う。…諺に曰く、天は富貴を人に与えずして、その働きに与うものなり。…学問を勤めて物事をよく知る者は、貴人となり、富人となり、無学なる者は、貧人となり、下人となる。…学問は…貴賎上下の区別なく、皆ことごとくたしなむべき心得なり。

 諭吉が言った冒頭の言葉は、こうしたことを指しているのであって、国民皆、学問に励めと言っているのである。その学問というものは、次のような内容である。

 文字を習い、帳合の仕方、算盤のけいこ、天秤の取り扱い…を心得るべし。

 これは、読み書き算盤程度の、現在の小学校教育以下でも、まずは事足りると言っているのであり、そして、それを大いに活用せよというのである。これによって、はじめて、貧人、下人から脱却でき、貴人、富人への道が切り開かれるというのである。さらに勉学にいそしみたい者に対しては、こう言っている。

 なお進んで学ぶべき箇所多し。地理学とは、日本国中はもちろん世界万国の風土、道案内なり。究理学(自然科学)とは、天地万物の性質を見てその働きを知る学問なり。経済学とは、一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。…年少にして文才ある者は、横文字を習わせ…

 なお、これらは、全て日本の経済発展に資するための「実学」のすすめであり、従って、その当時の高等な学問とされているものについては、次のようにけなしている。

 学問とは、…解しがたき古文を読み、和歌を楽しむなど実のない文学を言うにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者少なく、和歌をよくして商売に功者なる町人も稀なり。…日用の間に合わぬ実なき学問は、先ず次にして…

 次いで、すぐ後に発刊された「学問のすすめ 第2編」では、当時の学者と呼ばれている者に対して、痛烈な非難を浴びせている。

 ただ文字を読むをもって学問とするのは、大いなる心得違いなり。文字は学問をするための道具にて…文字を読むことのみを知って物事の道理を弁(わきま)えざる者は、これを学者というべからず。いわゆる論語読みの論語知らずとは即ちこれなり。
 これらの人物は、ただこれを文字の問屋と言うべきのみ。その効能は、飯を喰う字引に異らず。国のためには無用の長物、経済を妨ぐる食客と言うて可なり。

 このように、凄まじい表現でケチョンケチョンにけなしている。諭吉の「学問のすすめ」は、第17編まで次々と発刊されたが、その中で、第15編「事物を疑って取捨を断ずる事」に、真理の追究についての取組み方を示している。

 信の世界に偽詐(意味:うそ、いつわり)多く、疑の世界に真理多し。試みに見よ、世間の愚民、人の言を信じ、…その信は、偽を信ずる者なり。西洋諸国の人民が、今日の文明に達したるその源を尋ぬれば、疑の一点より出でざるものなし。…ガリレヲ…ニウトン…ワット…何れも皆疑いの路に由って真理の奥に達したるものと言うべし。…進歩して真理に達するの路は、ただ異説論争の際にまぎる(意味:波間を切っていく)の一法あるのみ。而(そ)してその説論の生ずる源は、疑の一点に在りて存するものなり。…疑の世界に真理多しとは、蓋し(けだし:思うに)これの謂(いわれ)なり。

 福沢諭吉と横井小楠との接触はなさそうであり、小楠の「学問の奴隷になるな」という言葉やその観念は「学問のすすめ」の中には出てこないが、その類型として、諭吉は、「疑の世界に真理多し」ということを、西洋の自然科学における諸々の発見の歴史から認識し、これを重視せよと言ったのである。
 加えて、異説を真剣に論争する以外に、真理に達することができないと言っており、学問の世界において、自由にして闊達なる論争を求めているのである。
 しかし、悲しいかな、諭吉のこの主張は、次第に忘れ去られてしまい、時代が進むとともに、学界権威者の独裁と学問の奴隷化が進行し、多くの悲劇を生みながら、現在に至っているのである。これについては、のちほど詳しく触れることとする。

 つづき → 第2章 数の文化と論理(第4節~第6節)
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昭和23年9月生まれの団塊世代人。    本名:三宅和豊              住所:岐阜県羽島郡岐南町三宅5-246  農家の長男として育ち、工業系の大学を卒業後、岐阜県庁に技術屋としてではなく事務屋として就職した変人。21年間県職員を勤めて、中途退職。父親が始めた薬屋稼業を平成6年に継いで今日に至る。平成12年頃から稼業の傍ら、母親の農業を手伝うなかで、百姓の魅力にとりつかれる。士農工商すべての身分を浅く広く何らかの形で経験していることが唯一のとりえである凡人。              著書は次のとおり。順次ブログアップ中。  随筆「ヤーコンの詩」(平成18年3月)   論文「食の進化論」(平成19年4月)   論文「新・学問のすすめ」(平成20年4月)論文「犬歯の退化」(平成22年9月)

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