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第2章 数の文化と論理(第4節~第6節)

(このページは「第1節~第3節」の続きです。)

4 「3の文化」の日本人
① 灰色を好む文化
 中東や西欧と、がらりと様相を異にするのが日本の文化である。今の日本人は「平和ボケ」しているとよく言われるが、日本列島に人が住みだした太古の昔から「平和ボケ」している民族である。
 ユダヤ人は、ソロモンの繁栄以外は侵略されっ放しであったし、西欧人は、相互侵略で気が休まる暇はなかった。両者ともに、寒冷化が訪れる度ごとに民族大移動の嵐に巻き込まれたのである。
 日本人が多少緊張したのは元寇の時くらいである。従って、日本人は、この時を除いて敵対する民族を絶えず意識する必要は全くなく、中国や朝鮮に対しては、先進文明国として敬意を表し、取り入れるべきものはそこから学ぶだけでよかった。
 こうしたことから、日本では、西欧のような「2の文化」は育ちようがなかったのであるが、明治の開国で「2の文化」が入りはじめ、先の大戦の敗北でそれが大きく加速された。
 それでも、文化というものは、同一民族がまとまって暮らしている限り易々と変わるものではなく、営々として築き上げられた日本文化は、現在でも日本人の精神に色濃く染み付いている。
 先にあげた例のように、道を聞かれれば「多分、こちらと思うが…」と自信なさそうに返答するから、西欧人に言わせれば、日本人は極端に断定を避ける民族だなと不思議がられる。また、アンケートで「どちらとも言えない」とあいまいに答えても平気な顔をしている様は、西欧人からは優柔不断過ぎると思われてしまう。
 でも、日本人にとっては、それは思慮深さの表われとして評価され、むしろそちらが好まれる。そして、白黒をはっきり付けない決着であっても一向にかまわないとし、意見が対立すれば玉虫色にして解決を図るのである。日本文化は、こうした「白・黒・灰色」の「3の文化」が大きな特徴となっている。
 こうした日本文化も、経済のグローバル化により諸外国との交流が進む中で、少しずつ変化してきていることは確かであろう。例えば、はっきりと物を言う傾向は、アンケートの「どちらとも言えない」が占める割合が、バブル崩壊以降、大きく減る傾向にあることからも見てとれる。もっとも、これは、外国文化の影響であるとは断定できない。先行き不透明感の中で、いずれかを選択せざるを得ない切迫感が勝っているようにも思われるからである。
 日本国内では、日常の社会生活において常日頃接する民族は日本人ばかりという世の中であるからして、日本文化の本質的な部分はどれだけも変わり得ないのが実情ではなかろうか。
 営々として築き上げられてきた日本文化は、その多くが先進諸外国にはない大きな特徴を持ったまま存続しているとも言える。

② 3つで安心する文化
 日本は、「白・黒・灰色」の「3の文化」が基本であるが、古来より、のちほど述べる中国文化の影響を受けたからと思われるのであるが、はっきりと異なるものを並び立てるという考えも生じて、「3大××」や「3××」という形、例えば日本3大祭、日本3景という形でくくられることが多いのも確かである。数が多すぎれば33箇所霊場巡りとなる。なお、こうした場合も、くくる数は圧倒的に3であり、2や4や5のケースは少ない。
 さらに、その派生型である「3つで全部」という考え方も根強いものがある。3種の神器、3拍子揃う、などである。3つが揃えば安心するという文化であり、2や4や5のケースはまれである。
 また、自由に意見を出させれば3者3様で、3人寄れば文殊の知恵となる。4人や5人で表現することはない。
 比較する場合にも、基本的には、優良可、大中小、上中下の3択である。二者択一では選択肢が不足して不満が生ずるし、4や5では分け過ぎて迷ってしまい、煩わしくなるとの感覚をもっている。そして、比較する場合に重要なことは、3つの選択肢の中に「あいまいで中庸なもの」が入っていることが求められるのである。これは、正に「白・黒・灰色」の文化の最たるものであり、迷いなく中庸を選んでそれで安心する傾向が強い。
 この「中庸をよしとする3択文化」も、近代化が進むに従い、特に戦後においては、様々な方面で崩壊しつつある。
 一つには、個人主義の尊重と物質文明の豊かさが相まって、自分にピッタリのものを選択したいという願望を満たすために、中庸を減らして両端を二分し、5分類する形を多く登場させてきた。近年に至っては、さらに細分化が進んでいる感がする。
 もう一つは、激しい競争社会への突入による過酷な成績比較であり、「優」を単なる「優」と「特優」に二分するとともに、「可」の下に「不可」を設けて、5段階で評価する形を鮮明化させた。
 元々の日本文化的成績比較は、「優良可」の3分類であり、加えて、一次判定で「不可」となっても再試や補講を行って手助けし、皆を「可」としてしまうのを好むのが日本人である。このように、日本人は「不可」を作ろうとしない民族であり、これは、のちほど紹介するが、米国人が感じた戦前の日本人教育観にも如実に現われている。何かと問題の多い教育改革であるが、是非ともこうした観点に立って取り組んでいただきたいものである。

 さて、経済はグローバル化し、小売業においても米国資本が日本に上陸した。トイザラスとウオルマートが有名で、大変な危機感を小売業界に抱かせたが、蓋が開いても何のことはなかった。原因がいろいろ取り沙汰されているが、「2の文化」が「3の文化」に馴染まなかったのが最大の原因であると、小生は考えている。
 日本においては、物品販売は「販売者ー物品ー購入者」という異質の3者の相互関連性のもとにあると考えるのであるが、欧米においては、「販売者ー物品」と、これとは別に「物品ー購入者」という分離された2者の関連に留まり、単に物品を売るだけ、買うだけで、売買が完結してしまい、実に冷めた取引となっている。
 日本では、第3の関連である「販売者ー購入者」の結び付きを両者ともに求めるのであり、少なくとも互いに笑顔でもってやり取りすることを好む。そうなると、物品を挟んで、販売者と購入者との間に3種類の関連性が生まれて売買が成立し、満足するのである。
 さらに、このやり取りの中で「販売者ー購入者」という2者の緊密度が高まれば、両者に満足を超えた感動の世界が生まれ出るのである。購入者は、その店で単に買い物をするという感覚ではなく、その店のお気に入りの店員から買い物をしたいという感情を抱くようになり、物品を購入するに当たっては、まず「販売者ー購入者」の固い結び付きの確認から始まり、それが終ってからおもむろに「物品ー購入者」の関係が持ち出され、その後で「販売者ー物品」の関係が提示されて、売買が成立する。そして、最後に再び「販売者ー購入者」の固い結び付きを確認し、両者がしあわせな気分になって再来を約束するのである。
 こうしたやり取りの中で、両者の絆により、自ずと物品に「しあわせ」という付加価値が誕生し、その繰り返しによって、付加価値も深まりをみせ、「販売者=物品=購入者」という「3」の関係を強くするのである。これが、日本人が求める売買の理想の形態であり、これを肝に銘じて「販売者ー購入者」の良好な関係づくりを実践している小売店は繁盛している。
 今日の量販店では、「物品ー購入者」という「2」の関係しか生じないセルフ販売が多くなったとはいえ、そうした店においても、日本人が求める売買の理想形態からして、可能な限り求められるものは「販売者ー購入者」の関係の構築であり、従業員教育もその観点に立って行われている。そのキーワードは「スマイル」であり、「いつもニコニコ笑顔でお客様との距離を縮めること」が最大の教育方針であり、これを徹底している量販店は集客力が強い。
 こうしたことをおろそかにしている「2の文化」の米国方式の経営では、消費者に決して満足を与えることができず、客足が遠のくのである。ここに、日本人の「3の文化」がよく見て取れると思うのであるが、いかがであろうか。

③ 暑さ寒さも彼岸まで
 こうした「3の文化」は、やはり気候が大きく影響していると思えるのである。日本の気候の特徴は、夏の「暑」と冬の「寒」そして「どちらとも言えない」春秋の「暖」の「3つ」である。
 春夏秋冬という4つの季節という捉え方もあるが、これは中国文化の影響であり、春は新緑、秋は紅葉と、暖季の内容に相違はあるものの、屋外における労働を捉えてみれば、「暑さ寒さも彼岸まで」というのが、実感ではなかろうか。
 年間の気候の変化は世界中にあり、一般的にはメリハリの利いた急な変化で季節が変わることが多いが、日本でそのような変化といえば、梅雨明けしかなく、それも「暑」の中の出来事であり、これ以外はだらだらと変わるのが特徴的である。
 もっとも、日本列島は南北に長く、沖縄と北海道の気候を一緒にできなし、古来からの固有の文化も異なる。太古の日本列島では、それぞれの地域において、それぞれの気候に根差した、それぞれの文化が当然にあったであろう。そうした中で、日本文化として融合し、確立したのは、九州から近畿までの西日本の地域であり、この地域の気候が日本文化を作り出した元になったと考えてよいであろう。
 西日本の真夏は、高温多湿が延々と続き、炎天下での労働を強いられもするから、酷暑として感覚することになる。一方、真冬は、九州といえども冷たい北西風のもとにあり、雪に見舞われることも度々である。そして、隙間風が入り込む家に住み、不十分な暖房しかなかったから、極寒として感覚することになる。住まい屋は、酷暑に対応できるように風通しをよくする必要があり、冬の隙間風対策はどうしても犠牲にせざるを得ない。 
 このように、真夏の酷暑も真冬の極寒も、ともに苦痛を感ずるだけで、ただひたすら耐えるしかない嫌な気候である。
 ところが、春は草木の若葉が豊富になり、秋は穀類・木の実・山芋が収穫できる豊穣を満喫できる。そして、何よりも温暖であり、皆が待ち焦がれる季節である。「暑さ寒さも彼岸まで」と、一時を我慢すれば、快適で生気が湧いてくる季節が到来するのである。
 以上のことをまとめて、世界の気候と比較し、日本の特徴を表現すれば、苦痛を伴う極端な「寒・暑」と、その「中庸」として快適な「暖」の「3つの季節」感となる。
 この「3つの季節」のもとに育まれた文化であるから、先に幾つか例をあげたように、自ずと物事を「白・黒・灰色」の3つで捉える傾向が強くなるのである。そして、極端な2つの「寒・暑=白・黒」を嫌い、「暖=灰色」を好むのであり、日本の文化の最大の特質は「灰色」に重きを置き、それをよしとすることである。
 こうしたことから、色物にあっては、極端な原色を嫌い、淡い色や中間色を好む傾向が強くなるのも当然のこととなる。

 この文化から生み出されたものが、世界に誇り得る「匠の技」であると考える。匠の世界は「白か黒か」というデジタルを拒否し、極めてアナログ的である。「灰色」は特定の1色を指すのではなく、白から黒までの間の区切りの付かない、無限の濃淡を持つアナログの世界である。だらだらと変わっていく「暖」の気候そのものであり、これがものづくりの基本となり、そうした微妙な変化をとことん追求し、それによって極めて精緻、精密なものとなる。
 職人及びその技術を尊敬する文化を持つ民族は、世界広しといえども極めて少なく、職人は一般的には下層階級の扱いである。こうしたことから、デジタルで考える民族は、上流階級は別であろうが、庶民にとっては、建築物であれ物品であれ、必要とする機能を備えていれは事足りるとし、それで十分に満足しきっている。
 しかし、日本人は職人を尊敬し、庶民までが「匠の技」の恩恵を受けてきているから、物や品をデジタルな評価だけで事足りるとはせず、綺麗に仕上げられていなければ決して満足しないし、さらに、手に馴染むといった使用感や造形の美しさという、洗練されたアナログ的な評価も併せて行い、主にこちらに重点を置く。
 ここに、品質基準が世界一厳しい国として、諸外国から煙たがられる理由があるのだが、庶民が手に入れることができる物品であっても、美的センスにあふれ、優雅であり、こころを和ませてくれ、西欧の上流階級と同じ豊かさを享受できるのであるからしあわせである。
 この素晴らしい文化を決して失ってはならず、これを維持し、高めていかねばならないのであるが、今や「匠」の世界は存亡の危機にある。人同士の交流が元になる文化は簡単には変わらないが、物や品は、経済がグローバル化したがために、人とは比較にならない激しさで混在し、自由選択が可能になったがゆえに、価格面で弱点を抱える日本製品が淘汰されようとしているからである。
 これは、米国型の大量消費、使い捨て文化の興隆によるところが大きいのであるが、これからは「もったいない」文化を再興させて、耐久性に優れ、飽きが来ない「匠の技」の製品から豊かさを享受するという視点で物選びを行うのが、我々日本人の使命であろう。そして、「匠の技」を守っていかねばならない。

④ 中庸力がキーワード
 さて、このような特徴を持つ日本文化と「科学」とは、どのような関わりがあるだろうか。
 残念ながら、「白・黒・灰色」思考では、画期的な発明・発見がどんどん出てくるということは望みようがない。様々な事象を白なり黒なり、デジタルに何かに特化させることによって、はじめて知らなかったことが見えてくることが多いからである。
 でも、全ての現象が相(あい)対する2つのものがデジタル的に作用して生じているとは決して思われない。そう思うのは、つとめて日本人的発想なのかもしれないが、生命科学においては、これが当てはまるような気がする。
 生命現象は、酸・アルカリ、交感神経・副交感神経といった相(あい)対する2つのバランスで成り立つと、一般的に説明されるが、そうとばかりは言えない。たとえば、細胞内化学反応は、水素イオン濃度がアナログ的に幅を持った中性の環境で成立する。これは、酸・アルカリのバランスというよりは、生命には「やじろべえ」のような「中庸力」なるものが本質的にあって、不安定ながらも決して安定を崩すことはない力を持っている、と考えたほうが素直であると思えるのである。
 我々日本人は、世界的にも珍しい独特のアナログ的「3の文化」をまだまだ色濃く持ち合わせている民族であるからして、その発想力は特異なものがあろうから、これを存分に生かし、科学の分野においても世界に貢献していかねばならないであろう。
 なお、日本人で最初にノーベル賞を受賞された、湯川英樹博士の中間子理論は「原子核の陽子と中性子がバラバラにならないのは、互いに中間子という物質をキャッチボールしているから」という予言であった。これは、「中庸力」を持った第3の物質によって、原子核が安定を保っているというものであり、正しく「3の文化」の「白・黒・灰色」からの発想ではないかと思えるのである。多少こじつけがましい説明であるが、第3の物質の予言というものに、何かしら独特の日本人らしさを感じるのは、小生だけか。

5 「4の文化」のインド人
① 気候の変化と宗教の変遷
 インダス文明に端を発し、その北部で醸成された文化は、極めて特徴的である。この地域の文化を考えるに当たっては、過去の気候変動と他民族の侵略が大きな要素となり、そのあたりをまず見てみよう。鈴木英夫氏の著書「超越者と風土」(原書房)及び「森林の思考・砂漠の思考」から、関係部分の要旨を小生なりに紹介する。

 5000年前まではインダス川流域も湿潤気候であったが、次第に赤道西風が南下し、それに伴って乾燥化が進んで、原住のドラヴィダ人が作ったインダス文明は3500年前頃に衰退した。そして、中央アジアに本拠を置いていた騎馬民族のアーリア人がそこへ侵入し、征服した。
 アーリア人の南下は、中央アジアの乾燥化なのか、それとも逆のやや湿潤化なのか、どちらかはっきりしない面があるが、後者の可能性が高く、力の勾配が北から南へ向かった結果と考えられる。
 アーリア人は、バラモン教を信仰し、最初は遊牧民族に特徴的な形の多神教であったが、西北インドへの侵入とともに農耕生活に入り、先住のドラヴィダ人と融合した宗教文化を作り出した。アーリア人は、その後、東へも侵入して、肥沃なガンジス川流域にも入っていき、ヒンドスタン平原が彼らの活動の中心となった。その地は、今よりもずっと湿潤な気候であり、広大な深い森であった。そこでも定住を選び、焼き畑農業を展開していった。
 その後、しばらくして乾燥化が進みはじめ、2600年前には乾燥化が相当進んだと考えられる。この気候変化は、少なくとも2000年前まで進行し、今日に至っているようである。
 この気候変化により、バラモン教の神々に変化が生じ、焼き畑が湿潤との戦いであったがために「火の神」を主神とし、次に、開墾の進展と乾燥化が進んで「太陽神」が上位に就いた。そして、さらなる乾燥化により、2000年前にはバラモン教から衣替えしたヒンズー教は雨をもたらす「モンスーンの神」が「太陽神」と並んで高位となった。
 その途中で、2800年前に、バラモン教に異質な動きが起こった。それは、「造物主」の概念の登場であり、これは明らかに古ユダヤ教の創造神の影響である。
 しかし、アーリア人は、この造物主の概念が自己矛盾していることに直ぐ気づき、哲学的思索のすえ、「ブラフマン(語源:増大する)」という万有の根本原理を持つに至った。その意味は「宇宙に満ちている何かを生じさせる力」であり、漢字では「梵(ぼん)」である。
 また、アーリア人は、先住のドラヴィダ人の習慣を見習い、深き森に入り込んで思索に没頭する者が少なくなかった。こうした瞑想において一番確かな存在は自分自身であり、感覚できるのは自分の呼吸だけであるから、最も本質的なものは「我(が)」であり、これを「アートマン(語源:呼吸)」と呼んだ。
 そして、ブラフマンとアートマンとが一体になること、すなわち「梵我一如」が真理であると考えるようになった。これを真理とすることは決して論理的ではないが、深き森の中で瞑想すれば、そのような考えに至るのも理解し難いことではない。
 アーリア人は、ブラフマンとアートマンの2つが、これこそ本質であると捉えたがために、その本質性のゆえに、人間の通常の言葉では表現できるものではないとして、「不可捉、不可壊、無着、無縛」といった否定形の集合によって表現するようになった。
 それと並行して、否定の論理が発達した。人間がこうだと考えたところに、正に人間によって考え付かれてしまうような存在では在り得ないという理由によって、「本質はない」とする論理である。この論理展開によって、物事の断定はなされなくなり、あるものがそれ自身で独立して存在するという考えをしなくなった。例えば、「生」というものは、「滅」というものがあって、はじめて存在し得るものであるから、それ自身では存在するものではないけれども、しかしそれは存在する。「生も滅もない」が「生も滅もある」という論理を展開するのである。これが「レンマの論理」である。
 このようにして、全てのものが互いに相まって存在すると考えるのである。これを「相待(そうだい)」という。釈迦の死後しばらく経って成立した仏教では、これを「空(くう)」と表現した。敢えて「空(から)」とう、否定的な意味合いを持つ言葉を「ある」としたのであるが、これは、誰もが「自らが自身で存在する」とする考え方に警告を発したものである。
 その後の仏教では、一神教の考え方を取り入れた超越者である「絶待(ぜつだい)者」と、天地万物のあらゆる「空」という存在が、また相まって存在し、「空」のまた「空」、すなわち「空の空」とした。「空の空」は、「宇宙に充ち満ちた有なるもの、あらゆるものを、それに於いて存在せしめるもの」であり、バラモン教のブラフマンの概念の延長線上にあることは明らかである。
 なお、ユダヤ教の唯一神は事物を絶した「絶対者」であり、それ単独で成り立つのに対し、仏教においては、「絶待者」もまた単独では成り立ち得ず、「空」と相待であると考える点が大きく異なる。そして、天地万物のあらゆる「空」と、超越者である「絶待者」がともに在るものであることから、天地創造も終末もなく、「万物は永遠に流転する」という結論に達する。
 加えて、バラモン教のアートマンである「我」の意識が仏教にも受け継がれ、「我」も不滅と認識する。そして、自然界に生と滅の繰り返しの現象があることから、輪廻転生の思想が自ずと生まれ、ここに円環的世界観が定着するに至った。仏教など「森」の宗教は、こうして出来上がったのである。
 一方、砂漠においては、草も木もなく、死んだ動物は白骨を残すだけであり、輪廻の思想は生まれ得ない。ユダヤ教などの「砂漠」の宗教は、世界は天地創造に始まり、終末へ向かって一直線に進行するという、直線的世界観が自然と成立する。
 この2つの宗教観は、人の生き方に大きく影響する。
 仏教においては、万物は永遠に流転し、人も輪廻転生するのであるから、気長に考えればよい。そして、元々「我」の意識が強く、「我」が「宇宙の中心の1つ」であるといった考えがあり、当然に「自力」というものも生ずるが、自力を働かしたければ働かし、自力が取るに足りないと思えば働かさず、「あるがまま」にあることが、次第に思想の主流となった。
 この「あるがままに」あるという思想は、超越者に抱かれればよい、つまり、他力でよしとする考えに進んだ。その超越者を理解するに当たっては、超越者であるがゆえに人間には理解不可能であり、超越者が人間の形を取ることが欲せられ、キリスト教がイエスであるように、仏教では釈迦がそのようであるとされたのである。
 一方、キリスト教では、中世まで、世界は紀元前5492年に創造されたと思われており、終末もさほど遠くないとの緊迫感があった。その短い世界の存在の間に、人間がのんびり過ごしていいはずはない。そして、人間に「自由意思」が与えられており、それを歴史の進む方向、すなわち神の摂理の方向に向けて働かすべきだ、と考える思想が支配的となった。
 これが、産業革命以降、なおいっそう社会が進むように、個人個人が「自由意思」を働かせようという積極性を生んだ。西欧社会は、これを「進歩」と名付けた。この思想は、西欧の近代化が進んだ要因の一つとして大きな役割を果たした。
 なお、「進歩」という言葉は、江戸時代まではなかった言葉で、明治初期に翻訳の必要から作られた和語である。(引用要約ここまで)

 以上が、鈴木英夫氏の主張の要点である。なお、仏教はその後もどんどん変革していくが、その説明は省略することとする。
 ここで、補足したいのが、釈迦の時代(紀元前5世紀頃)やその少し前の西北インドの気候である。この地域では、数千年かけてゆっくり進行する乾燥化に加え、数十年から百数十年ごとに繰り返される地球の寒冷化・温暖化に伴って生ずる乾燥化が重なり、広範囲に旱魃に見舞われ、長く飢餓にあえいでいたようである。
 この時期において、否定の論理が発展したのも、こうした乾燥気候による厳しい生活苦が背景にあったと思われる。また、釈迦が残した説法に、生まれること自体が苦であり、生きていること自体が苦であるなどと、あまりにも多くの「苦」が登場するのも、こうした背景があったからであろう。
 ところで、西北インドにおけるこの時代の自然環境の理解の仕方は、遠く離れた日本にも大きな影響を与えた。
 そもそも、日本という国は、海という自然の要塞に囲まれて他民族の侵略を防いでくれ、かつ、中緯度にあって気候は温暖であり、四季を通して雨が降り、その自然は毎年豊かな恵を人々に与えてくれる、世界一安全で安心して暮らせる素晴らしい島国である。
 よって、古代の日本人の国土感は、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)」という表現にも端的に現われているように、極めて明るい肯定的な国土感であった。
 しかし、日本人は、自国を自然災害に充ち満ちた国として意識している。これは、仏教伝来によって、そのとき以降、自分の国土を否定的にみる見方に変わったからであると、内田英雄氏が述べておられる。これに輪をかけたのが、近代になって、それまでは荒地や湿地、せいぜい水田としていた災害危険地域に、生活・活動拠点を移したことであり、その結果、被らなくてもよい各種災害に度々見舞われるようになって、今日に至っては世界有数の自然災害多発地域と思い込むようになってしまったのである。

② 4で括る釈迦の説法
 釈迦が説いた内容は、当時は口伝であり、文書化されたのは約200年後であるがために正確性はないが、根本的な「教義」(正しくは「倫理・道徳」)は、そのまま伝承されているようだ。
 それは四諦(したい)と呼ばれる。四諦は、4つの理(ことわり)=真理を説いたもので「苦・集・滅・道」を言う。
 まず「苦」であるが、人生は苦であることを知ることにあると言う。「生(うまれる)・老・病・死」を四苦と言い、次の4つの苦と併せて、これを四苦八苦と言う。
 ・愛する人との別離の苦
 ・怨念や憎しみを抱いた人とも会わなければならない苦
 ・求めても得られない苦
 ・生きていること自体が苦しみ
 仏教は、このような何もかも暗い、空しいイメージの説明から始まる。楽しいことは何もないという世界観である。
 次に「集」であるが、これは原因のことである。「苦」には原因つまり「煩悩」があり、それを捜し、理解することにあると言う。自分自身をよく観察し、物事への執着、欲望を持っていないかどうか考えよ、というものである。
 3つ目が「滅」であり、「煩悩」の理解を通し、こころの持ち方で「苦」は消滅し、悟りの境地に至ると言う。物事への執着、欲望を捨て去れば、悟り、解脱し、涅槃となると言う。
 4つ目が「道」(どう)であり、「苦」を滅する方法、これを八正道と言う。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つの心構えを説いたものであるが、その内容は省略する。
 そして、行動規範ともいうべき「四無量心」を説いた。これは「慈悲」とも言い、次の内容である。
 ・慈 あらゆる人に対して、友情のような優しさ
 ・悲 他人の苦しみや悲しみをなくしてあげたいという優しさ
 ・喜 他人のしあわせをともに喜ぶ優しさ
 ・捨 差別感を捨て、広々とした平等のこころでいる優しさ

 釈迦が何を説いたのかについて、幾つかの文献から、以上のようにまとめられたのであるが、括り方が奇妙に感じられた。それは、「4」と「8」で括られるものがあまりにも多いからである。
 そこで、日本人的に「3の文化」から眺め直すと、「四諦」に並べられた最初の3つの「苦・集・滅」のために、具体的に取るべき道が八正道であると言っているのだから、ここは「三諦」で括ったほうがすっきりして分かりやすい。
 「生・老・病・死」の「四苦」も、「生(うまれる)」は大前提であり、「生」があって、はじめて「老・病・死」の「三苦」が生ずるのであるから、「三苦」としたほうが素直である。
 次に、第八苦の「生きていること自体が苦しみ」は総括的であって、我々日本人が思うに、自身の「三苦」と、人との関わりの「三苦」があり、もって「生きていること自体が苦しみ」であるとまとめると理解しやすい。
 八正道の内容は省略したが、順不同で分かりにくい。これは8つにも細分する必要はなく、日本人的分類であれば、3つに統合するであろう。また、「四無量心」のうち、「慈」と「捨」は同じ意味であろうから、「三無量心」でよいではないか。
 日本では「3」が好まれ、3分類、3括りにするほうが頭の整理がしやすい。これに対し、たぶんインドでは「4」が好まれ、このような括り方になったのではなかろうか。

 「数」のこだわりの文化の相違を頭に置いて、他国の人の思考方法を理解する心構えがいるであろう。もっとも、仏教は、その後、もともと4であったものの1つ付け足して5にしたり、初めから5や9の分類が出てきたりして、複雑化の傾向を示している。
 また、インド哲学では4分類はまれであり、少なくとも4と5で併せて9とか、14、16、18といった非常に大きな数に細かく分類する傾向が強く、小生にとってはそれを理解するのが大変である。これは、古来よりインド哲学の各派間での論争が激しく、付け足しによって、どんどん大きな数で細分する傾向が強いのと、インドの算数には2桁の掛け算の九九があるくらいで、数字好きで数字に強いインド人の性格が大きく影響していよう。

③ 4つの身分と4つの気候
 「4」について、文化的影響力が最初に強く現われたのは、アーリア人が原住のドラヴィダ人を支配したことによって作られた身分制度カーストであろう。これは4つの身分に分類される。バラモン(聖職者)、クシャトリア(王・貴族)、ヴァイシャ(平民)、シュードラ(現住民)の4つである。
 その後、カースト外の不可触賤民としてアチュートが制度化されて、実質的に5分類になり、これは今日まで続いている。現在、インドで問題になっているのは、カーストの身分制度ではなくて、カーストに身分を置く者によるアチュートに対する激しい差別の存在である。国民の8人に1人がアチュートに属していると言われ、彼らはスラム街に住まわされ、就く仕事も限定され、極貧の生活を強いられているからである。
 いずれにしても、西北インドにおいては、仏教の教義やカースト制度に見られるような、基本的には「4の文化」が誕生したと思われるのである。これも、気候の影響が大きいのではなかろうか。
 原住のドラヴィダ人が活躍したインダスの「暑」に対して、アーリア人が住んでいた中央アジアの気候は「寒」である。そして、西北インドの西部は「乾」であり、東部は「湿」である。この4つの気候の中に、ドラヴィダ人とアーリア人が混ざり住み、それぞれの地域に「暑・寒・乾・湿」の別々の気候に裏打ちされた異なる文化が醸成されたことであろう。
 そして、広大な西北インドであっても、地域間の相互交流が盛んであったであろうから、何かを決めるに当たっては、異なる4者4様の立場と意見をもとに対処せざるを得なかったであろう。そうした中で4分類や4つの並立が落ち着きのよいものとなり、2、3の分類や並立では、何か落ちがあるのではと不安になろうというものである。
 こうして、初期仏教では4つ、4つで区切っていけば、理解されやすいということになり、先に紹介した釈迦の教えのまとめ方が成立したと思われるのである。
 この4つで括る生活習慣が、全ての事物を4つの形で考えてみる「レンマの論理」を西北インドに誕生させたと言ってよいだろう。そして、仏教思想を深め、また、大きく発展させた。
 しかし、その「レンマの論理」で物事を思考しようとする哲学や思想は、その後において力を弱める。西北インドは、ユーラシア大陸の中央に位置するという立地から、紀元前2世紀には新たな遊牧民族の侵略があったし、その後も一神教徒のイスラムとの対立が度々繰り返され、その間にギリシャ哲学の影響を受けたりして、西北インドにも「ロゴスの論理」が色濃く入り込んできたからである。
 インドにおける最大の宗教は、バラモン教が変貌したヒンズー教であり、表面的には多神教の形になっているが、本質的には一神教であり、唯一神が様々な神仏となって現れ、釈迦もその一人とされている。信仰する入り口は幾つもあるという立場を取り、様々な宗教を吸収してきたのがヒンズー教である。インドでは、一時仏教が大きく広まったものの、その後ヒンズー教に吸収され、ヒンズー教は長くインド全域をほぼ支配してきた。
 もともと大きな多神教の宗教集団であったバラモン教から発展したヒンズー教であるから、聖職者による宗教経済学が優位に立ち、ヒンズー教は宗教の総合デパートの様相を示しており、単なる信仰になってしまって、仏教にみられるような論理性を欠いている。
 それに代わるものとして、インドでは、哲学において論理を大きく発展させた。これは極めて特徴的である。先に述べたように、釈迦以前に、すでに論理学が登場しており、インド哲学は各派に分かれて今日まで連綿と続き、質、量ともに高めているのである。
 古代ギリシャの哲学はかなりの期間にわたり引き継がれたが消えてしまったし、その後の西欧においては、一人の哲学者単独で終る傾向が強いのに対して、インド哲学は対照的である。
 従って、インド哲学は、時代が進むとともに、その内容に深まりをみせ、かつ、高度化させている。そして、格段に論理学を発展させた。もはや論理的欠陥や詭弁は一掃され、実に美しい哲学を形づくっていると言えよう。
 インド哲学の特徴は、激しく論争する中で論理学を発展させたことであり、今日でもインド人全般に非常に論争を好む。そうしたことから、各派とも「ロゴスの論理」で語られることが多くなってしまい、残念ながら「レンマの論理」はインド哲学の脇役の存在にされてしまった感がする。
 いずれにしても、インド哲学は、広範囲にわたって深く論理を展開しており、数学や物理学の発展に貢献するところ大である。本書の第1部において、「Em宇宙モデル」を論理的に説明していくに当たり、大いに役立ったことは所々で述べたとおりである。

6 「5の文化」の中国人
① 中国の宗教と思想
 中国の宗教と思想について、まずは鈴木英夫氏の著書「超越者と風土」から、その要点を紹介しよう。

 インドで仏教が誕生するより前の時代は、中国は多神教であり、北部や西部の草原地帯のシャーマニズムの影響を受けて、至上神として創造神の性格を合わせ持つ「天空」の神があり、殷の時代には国家支配者に「天帝」の称号が与えられた。
 なお、シャーマニズムとは、自然界に存在するあらゆるものに霊魂が宿しているとするものであり、その霊魂と交信できる者、シャーマンをめぐる文化形態である。
 春秋時代(紀元前770年~403年)に入り、諸子百家の出現で、天帝支配の概念が崩壊したとは言え、その時代に活躍した孔子は、「天空」の神の存在を信じており、孟子にしても類似した考えを持っていた。
 インドで釈迦が活躍した時代と同時期またはそれ以前のことであり、たぶんにユダヤ教の唯一神の影響を受けているが、この時代に生まれ出た儒家、道家ともに、同時代のインドの思想と共通点が多い。
 我々日本人は、鎖国時代の感覚で推測しがちであるが、農耕の始まり、古代文明の興隆、宗教や思想の発生など、紀元前のはるか昔において、すでに人の交流と文物の伝播は、思いのほか急速であったと考えねばならない。
 その後、紀元前後にインドから中国に仏教が入り、仏教思想の「空」の観念が広まった。そして、論理に深まりをみせた。
 その中国仏教の中で、最も偉大な哲学を持ったものが華厳宗であった。インドの大乗仏教との共通性はあるが、本質的に異なる考えを持った。
 華厳宗の特徴は、一輪の花のなかにも無限の生命が躍動していることで、現実の世界が、そのまま「仏のおんいのち」であることを感得し、涅槃を別の世界に求めないのである。
 つまり、大乗仏教においては、超越者(仏)と有限者(人)の関係に関心を示したのに対し、華厳宗においては、有限者と有限者、個物と個物の関係に関心を集中させたのである。そして、超越者について考えることを放棄してしまった。
 このような思想が誕生した背景については、中国人の現実的性格にあると考えるのは、多くの人の観察するところである。
 これは、気候が温和で、自然の恵み豊かな中国の風土から生まれたものである。インドは雨期と乾期がはっきり分かれており、赤道西風の到来が時間的にも空間的にもちょっとずれただけで直ちに旱魃となり、激しい暑さが続き、餓死者が続出するという厳しい生活環境にある。これに対して、中国大陸の大半は1年を通して雨が期待でき、温暖であって、地球上で最も恵まれた地域の一つに生活していることに根差していると思う。
 華厳宗は唐代の仏教弾圧により衰退し、その後、禅宗や浄土宗が生まれてくるも、やがて道教に飲み込まれてしまった。
 道教は、民間信仰から自然発生した多神教であり、不老長寿を主目的とする現世利益的なもので、ヒンズー教と類似するものの、ただ漫然たる混合主義であり、道教の寺院の中には、釈迦もイエスもマホメットも合わせて祭られているという。
 こうした宗教のていたらくから経世済民に使命を感じて生まれてきたのが、朱子(1130-1200年)による朱子学であり、王陽明(1472-1528年)による陽明学である。
 朱子は、自然と人間の働きが、ともにそうならざるを得ぬ究極の理「太極の理」の存在を中心に考え、「無極にして太極」とも表現した。また、もう一つの原理、「気」があるとした。
 王陽明は、その「気」を重んじた。「気」でもあり、また、全てであるものを「良知」と名づけ、「良知」とは、人間のこころの本来の姿、宇宙の生命力そのもの、「理」であるとともに「気」でもあり、一であるとともに無限、また、全てを作り出す力であるとした。(引用要約ここまで)
 
 以上が中国の宗教と思想の概略の流れである。日本との気候風土の類似性から、宗教は多神教が支配するところとなった。
 哲学においては、レンマの論理をはじめ、インドとの共通性が見られるものの、中国に特徴的なのは、「気」に重きを置いたことにある。この「気」を、朱子や王陽明は、思想において採用したのであろうが、中国哲学においては古代からあったものと思われる。それは中医学(通称:漢方)という自然科学において、強く現われてくるのであるが、次項においてそれをみてみよう。

② 中医学の5分類
 3000年の歴史を誇る中医学がどのような経緯で完成したのかは、小生の不勉強で知らないが、完成された中医学では、自然界の本質は全て「氣」で語られる。(「気」と「氣」は同じようではあるものの、その概念に違いがあるので、ここでは、中医学でいうところの「気」は「氣」と表記する。)
 これは、日本の文化にも深く染み込んでいる。挨拶に頻繁に登場するのが「気」である。例えば「気候が陽気になった上に、今日はいいお天気ですね。お元気ですか。」「いや、病気して、気分が優れません。陰気で…、気力もなく…」と幾らでも出てくる。
 中医学においては、「氣」とは「宇宙全体に満ちあふれ、全ての命を生み出すもの」であり、「元氣」とは、全ての元になる氣であり、あらゆるものに命を与える根源の「氣」とされる。
 これは、宇宙を物質で語るのではなく、エネルギーを万物の根源とし、エネルギーが蓄積して姿あるもの(物質)が現われ、姿あるもの(物質)はやがてエネルギーに還るとする考えであり、相対性理論を生み出したアインシュタインが、エネルギーと物質は相対であるとしたことと、思考において共通性が見出される。
 その「元氣」は、「陰氣」と「陽氣」に分かれ、それぞれが単独では存在し得ず、2つで1つ、1つで2つの関係にあると、レンマの論理を展開する。なお、「陰氣」は悪くて「陽氣」が良いとするものではない。陰である夜と陽である昼に良悪の差はなく、夜と昼で1日が成り立ち、1日は夜と昼で成り立つのである。
 そして、陽である「天の氣」と陰である「地にの氣」をもらいうけて、天と地の交わるところに生き物が誕生し、「元氣」を絶え間なくもらいうけて成長し、人であれば「人氣」を生み出し、生命を維持するのである。この「人氣」が尽きたときが死であり、入れ物である体に宿っていた「元氣」は、やがて全てが天や地に還り、そして、入れ物である体は消滅すると考えるのである。
 宇宙にある無限の「元氣」が、自分という1点に集まり、そしてその1点から無限の宇宙に還るとする、この考え方は、アーリア人がたどり着いたブラフマンとアートマンが一体となる「梵我一如」に通ずるものがあり、華厳宗の哲学との共通性がある。

 中医学の最大の特徴は、根源としての「陰陽論」をベースに置きながら、次に示す「五行論」を展開することにある。
 我々が知覚する大自然の営みを「木(もく)・火(か)・土(ど)・金(ごん)・水(すい)」の5つで表現し、2種類の相互関係があるとするものである。
 「木」は「火」で燃えて「土」になり、「土」は積み重なって地層を形成し、地層は「金」に代表される鉱物を生み出す。鉱物は雨水を清らかな「水」にし、「水」は「木」を育てる。このようにして、次々と他を生み出していく、この働きを「相生(そうせい)」という。
 次に、「木」は「土」から養分を吸い取り、「土」は「水」を吸い取り、「水」は「火」を消し、「火」は「金」を溶かし、「金」は「木」を切り倒す。このように、特定の相手を制御する。この働きを「相剋(そうこく)」という。
五行論図
 そして、当然のことながら、それぞれに「氣」があり、木氣は支え、火氣は温め、土氣は養い、金氣は清め、水氣は潤すとなる。
 さて、中医学では、この大自然の営みは、人体の臓器やこころにも深く相関していると考えるのである。例えば、5つの主要臓器について、「肝」は栄養を蓄え体を支えるから「木」、「心」は血液を巡らせ体を温めるから「火」、「脾」は栄養を調節し体を養うから「土」、「肺」は全身に送り込む空気を清めるから「金」、「腎」は水分を代謝し体を潤すから「水」に、それぞれ対応させる。加えて、5臓にも相生と相剋があるとする。(注:中医学では、脾は脾臓本来の役割を言うものではなくて、栄養を全身に輸送し、血管の状態を管理するとともに、不要な水分の排泄をコントロールする臓器と考える。また、5臓6腑という言葉があるが、基本形は5臓5腑である。5腑については表に示したが、第6の腑は三焦と呼ばれ、氣のセンターのようなもので、形なき臓器である。)
 感情についても触れておこう。近代医学に馴染んだ我々は、感情は脳にあると考えてしまうが、中医学では脳は登場せず、5種類の感情がそれぞれの臓器から発せられるとする。
 「怒」は「肝」から発せられ、正常なら奮起であり、過ぎれば激怒するとなる。同様にして、「喜」は「心」にありて歓喜・狂喜を、「思」は「脾」にありて正常思考・苦悩を、「憂(悲)」は「肺」にありて慈悲・悲嘆を、「恐」は「腎」にありて畏怖・恐怖を引き起こす、というのである。これは、なかなかどうして、当たっているのではなかろうか。
五行論表
 この表のように、五行論では、何もかもを5つに分類し、かつ、各行ごとに関連があるとする。本表には掲げなかったが、体の反応や野菜・果物についてもそれぞれ5分類する。
 しかし、何もかもがそのように見事に枠にはまるものか、甚だ疑問にも感ずる。これはこじつけではないか、と思ってしまう。
 その一つが季節の5分類である。春夏秋冬の4分類では5季にならないから、各季の間に、季節の変わり目の「土用」というものがあるとして5分類とする。日本では夏の土用しか馴染みがないが、中国には春秋冬にも土用があるのであり、合計8つの季節変化になるのだが、これを5つと数えるのである。また、1日の時間割も、朝、昼(午前)、正午、夕(午後)、夜と5分類する。
 極め付けは方角である。方角はどう考えたって東西南北の4つしか有り得ないが、これでは5にならず、何と中央を加えて5つにしてしまう。もっとも、これは、4方位の神が守護神となる「風水」の信仰が強かったから、中央を登場させたものと思われる。
 なお、五行論には登場しないが、軍事、経済面においても、5つを並立させたり、5分類する傾向が強いようである。
 さて、中国人が、こうも「5」にこだわったのはなぜだろうか。中医学がどのようにして誕生したのか、小生の調査不足で推測にすぎないが、星占いがスタートのように思える。
 五行論の最初の列に書き表わされるのが、木火土金水であり、これは、当時知られていた5つの惑星が重なってイメージされる。金星と水星については多少のこじつけとなるが、他の3つの惑星の、木星、火星、土星は、その輝き、色、運行速度ともに、木、火、土のイメージにぴったりである。
 今日においても、運気論という健康に関することを中心にした星占いがあり、毎年の気候が特定の惑星の影響を受けることを基本に置いている。これも、木火土金水の順に5年で一巡りする。

③ 中国の5つの気候
 漢民族の、何もかも5分類しようという、あまりのこだわりようは尋常ではなく、何か他にも理由がありそうで、気候も関係していると思ってよさそうである。
 漢民族は、広大な中国大陸に、太古の昔から住んでいたと思われる。広大であるがゆえに、場所により気候が大きく異なるものの、先に紹介したとおり総じて温暖であり、年中雨が期待できる地域が多い。従って、西北インドのようにメリハリの利いた「暑・寒・乾・湿」の4つの気候に単純に分かれるものではない。その組み合わせにより、暑湿、暑乾、寒湿、寒乾の典型的な4つの気候もあれば、その中間型の気候も広く生ずる。例えば、暖湿、暖乾であり、当然にそうした気候に裏打ちされた文化が幾つも存在することとなり、西北インドのように単純に文化を分類できないであろう。
 けれども、おおもとは「暑・寒・乾・湿」の4つの気候であり、「4」という数が意識されてしかるべきである。
 しかし、中国には、隣接して4千メートル級の高地であるチベットがあり、そことの交流も当然に深かった。そこの気候、気候とは少々異質なものではあるが、その特徴は、「薄」つまり極端に空気が薄いことにあり、平野部からいきなりチベットへ入り込んだ者は、日常生活がままならないほどに苦しめられるという。
 従って、これを無視できないから、中国の気候は「暑・寒・乾・湿・薄」の5つの要素から成り立っていると考えることになろう。こうした気候の種類があることも、「5」で全部とする数の文化を生み出した要因になっていると思われるのである。
 なお、五行色体表の五悪には「風・熱・湿・燥・寒」と書き表わされ、「薄」ではなく「風」となっているが、五悪は、体に悪い気象を指しており、気候分類とは別の視点で捉えているので、違ったものになっていることを申し添えておく。
 蛇足となるが、詩の形式についても触れておこう。
 漢詩のはじまりは、唐の時代の五言絶句や五言律詩(絶句の倍の句)である。ここにも「5」のこだわりがある。日本人なら誰もが知っている有名な漢詩「春眠不覚暁」が絶句であり、「国破山河在」が律詩である。もっとも、その後、七言絶句や七言律詩も作られ、まれに六言や四言もあったりする。
 日本で生まれた和歌は、5・7・5の上の句と7・7の下の句で構成されるが、律詩を簡素化した日本版の詩と考えてよかろう。そして、和歌の下の句を削除した絶句版の俳句が誕生した。
 両国ともに短文の詩は、時代とともに変形しているが、中国は五言が主流で、日本は3行に書く俳句が主流であり、ともに数にこだわりがありそうだ。日本人には、やはり「3」が馴染みやすい。
 もう一つ、中国人の日常生活における「5」の文化を紹介しておこう。果物の収穫を進めていくと、終わりには1本の木にわずか2、3個残った状態に至る。これを見て、日本人はまだ「ある」と言い、中国人はもう「ない」と言うのである。
 これは、日本人であれば「3」個揃えば足りていると捉えるのに対し、中国人の場合は「5」個揃わないと足りないとする文化に由来していよう。中国人にとっては、2、3個では、とても「ある」とは言えないのであろう。もっとも、中国人は、残り2、3個の果物を「ない」と表現しても、熟すれば採るのである。「ない」けれども「ある」のである。これは四捨五入の論理ではなく、「レンマの論理」が働いていると考えるべきで、こうした思考が日常化しているのではなかろうか。

 つづき → 第2章 数の文化と論理(最終第7節)
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昭和23年9月生まれの団塊世代人。    本名:三宅和豊              住所:岐阜県羽島郡岐南町三宅5-246  農家の長男として育ち、工業系の大学を卒業後、岐阜県庁に技術屋としてではなく事務屋として就職した変人。21年間県職員を勤めて、中途退職。父親が始めた薬屋稼業を平成6年に継いで今日に至る。平成12年頃から稼業の傍ら、母親の農業を手伝うなかで、百姓の魅力にとりつかれる。士農工商すべての身分を浅く広く何らかの形で経験していることが唯一のとりえである凡人。              著書は次のとおり。順次ブログアップ中。  随筆「ヤーコンの詩」(平成18年3月)   論文「食の進化論」(平成19年4月)   論文「新・学問のすすめ」(平成20年4月)論文「犬歯の退化」(平成22年9月)

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