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第3章 思考改革は対称性の論理にあり

第3章 思考改革は対称性の論理にあり

1 芸術は意識的な対称性の論理
 原始時代の土偶の類、例えば女性の全身像は世界中で出土するが、抽象化というか、はっきりとデフォルメされている。これが、時代が進むとともに具象化が進み、実物と違わぬ彫像となった。
 一方、原始時代の壁画として1万5千年前のラスコー洞窟の壁画が有名であるが、絵画の世界においては、初めから抽象性はなく、具象化から出発した。それが、時代が進むとともに徹底的な具象化の道を進み、写真と変わらぬ写実画となっていった。
 彫像と絵画、ともに芸術であるがスタートが全く違う。彫像といっても原始のものは粘土細工であるのだが、その作品には具象を拒否した、近代芸術作品と同質の主張がなされている。
 原始人は低脳であったから、彫像づくりが下手くそであり、今時の幼児の作品程度のものしか作り得なかったのでは決してない。
 彫像は、初めから抽象化を意識して粘土細工をしたと考えるべきである。しかし、絵画は抽象化しなかった。原始人が作った彫像も絵画も、目的とするところは原始宗教しか考えられず、同質のものである。ここに大きな疑問が湧いてくる。
 「対称性の論理」に基づく「彫像」と「非対称性の論理」に基づく「絵画」の両立が、スタート時点でなぜ起こったのかという疑問である。この疑問は棚上げして別の機会に譲る(2016.4.21 「原始時代の壁画と土偶の表現手法の違い」)こととし、中世において、全ての芸術が具象化の極みに達し、それが長く続いた時点から話を始めよう。
 この芸術部門において、世界で初めて具象をぶち破ったのが、日本人であり、江戸時代の浮世絵にそれが現われた。葛飾北斎の富岳三十六景の「波裏」や「赤富士」がその良い例である。また、浮世絵師たちは、美人画において目や口を極端に小さく描き、北川歌麿に至っては顔の輪郭線を省略するという様式革命も行った。
 これらの浮世絵を入手した西欧の画家たちは大きな衝撃を受け、これに刺激されて印象派が台頭し、写実の世界から脱皮しようとして大胆な画法を取った。輪郭線の完全な省略と具象の拒否である。そうして描かれたモネのスイレンは、日本人にとって馴染み深い植物が題材となっており、また、光あふれる風景を描き出していることから特に人気が高い。そして、その絵画には、肉眼で見たスイレンとは全く違った、こころを強く引かれるものがあり、そこには不思議な何かが秘められているのである。
 それは何か。中沢新一氏がその著書「対称性人類学」の中で、それを述べておられるので、その要旨を紹介しよう。

 印象派の絵画を眺めていると、こころの中で「分離」や「不均質」を作り出していた写実という「非対称性の思考」の産物が解体を起こし、「対象性無意識」の作動が始まるのである。
 「非対称性の原理」によって支配される経済社会や科学技術が大きく発展したことにより、「対称性の世界」は人々から遠ざかり、それによって、こころの安らぎが失われてきている。
 そうした中で印象派の「対称性無意識」から湧き出してきた絵画を眺めていると、人々に幸福の感覚のかけらがキラキラときらめいてくるのが直感できるのである。
 そして、こころの内奥の無意識から沸き上がってくる快楽に触れることができるのである。
 印象派に続き、それを大胆に推し進める抽象派と立体派が登場した。時は、アインシュタインが相対性理論を生み出そうとしていたのと同時期であるが、芸術家たちも3次元の空間意識からの脱却を図ろうとしていた。ピカソをはじめとする多くの芸術家が高次元の数学の研究に没頭したのである。
 眼が捕らえるリアルは、はっきりとした3次元空間であり、その瞬間においては、誰も同じ捕らえ方をする。しかし、実社会では、人は複数の視点から物事を見ようとするし、リアルがたくさんの側面を備えていることも知っている。また、時間の経過でリアルが変化するのが一般的であるし、そして、経験を積むことにより、リアルの見方も変わってくる。
 このように、日常生活の中での「非対称的な認識」のやり方が、流動的に変化していく実社会のリアルに正確に対応していないことを、人は体験からよく知っている。
 そこで、前衛的な芸術家たちは、リアルの構造を高次元的に認識するための絵画に挑戦したのである。もともと高次元な成り立ちをしている人の無意識を表現しようとしたのである。
 その1枚の絵画には、「分離」や「不均質」を排除し、複数の視点や複数の時間軸を組み合わせ、圧縮技法による抽象化を行ったりして、高次元を表現する方法に取り組み、大胆に「対称性無意識」を働かせようとしているのである。(要約引用ここまで)

 少々難しい解説であるので、小生なりに補足しよう。
 人間の眼は、確かにカメラの働きをしており、物を見たときに、それを脳にリアルな写真として映し出してくれるものの、ただそれだけのことである。もっとも、夕日を見たときに物悲しさが沸いてきたりするが、それは自分勝手に、あと30分もすれば暗闇が訪れると、想像をたくましくしているだけであって、夕日そのものは、単なるリアルに過ぎない。
 小生は、葛飾北斎が70歳を越えてから描いた、富岳三十六景の「赤富士」に格別の感動を覚える。あの「赤富士」は写実であって、滅多に見られない朝焼けとして説明されているが、そうではない。
 部分に分割して見てみれば、朝昼晩と夜が合体した絵になっていることが分かる。青い空と白い雲・残雪は昼の風景であり、夕日に映える山肌は晩のほんの一時の姿であり、山頂の焦げ茶色は夜に差し掛かった姿である。そして、山裾の樹海はまだ日が当たっていない状態を表わしており、これだけが早朝の風景であろう。
 「赤富士」は、1枚の絵に時間の経過によるリアルの変化を部分ごとに落とし込んだ、現実には存在しないリアルである。しかし、この絵は間違っている、醜い絵であるなどとは、誰も言わない。もっとも、モネの絵のように幸福感とかキラキラとしたきらめきを感じるわけではないが、「赤富士」には、大自然のあまりの力強さと、それに圧倒される自分を感じ、身震いするのである。
 そうした感受性を生じさせるのは、複数の時間軸を無視した上で、複数の視点で捕らえたリアルをズタズタに切り裂き、それを大胆に繋ぎ合わせるという、圧縮技法を取っているからである。
 そして、この絵を全体として眺めたとき、人のこころに「対称性無意識」を働かせてしまうのである。つまり、無意識のもとに、複数の時刻と複数のリアルという「分離」や「不均質」を消滅させ、無意識のこれらを「融合」、「均質化」させてしまうのである。
 人のこころは、こうした「対称性無意識」を自然に持ち合わせているのであって、人のこころにこれが強ければ強いほど、より感動を覚え、しあわせを感じ、快楽に浸れるのである。
 これは何も芸術鑑賞に限ったことではなくて、人が生きていく上で、全ての行いに関係してくる。
 葛飾北斎について、少々補足しておこう。北斎は90歳で亡くなるまで活躍したが、写実をぶち破ったのは「裏波」と「赤富士」の2点だけである。なお、「赤富士」は俗称であり、題名は「凱風快晴」(凱風=南風)といい、摺物(版画)である。これが摺られた時期により、山肌と山頂の色付けだけが変えられており、中には写実的な茶色のものもある。北斎の具象を拒否するこころに迷いがあるようでもあり、晩年の作では写実の傾向を強くしており、これは商業絵師として江戸町人の好みに左右されたのであろう。

2 統合失調症は対称性のほとばしり
 天才と気違いは紙一重と言う。特に芸術家に対しては常識と言われるほどに根強い偏見がある。これは、今、紹介したような「対称性無意識」をいつも作品制作に強く働かせようとしているからであり、これが日常生活にもこぼれ出ることがあるからである。
 統合失調症、以前は、精神分裂症と呼ばれていた精神障害であるが、これと同一視されてしまうのである。しかし、違う。
 確かに、物事の発想の出発点は酷似するものがある、いや、同一であると言えるのだが、そのあたりを、引き続き中沢新一氏の著書「対称性人類学」から要約して紹介しよう。

 統合失調症の者には大変特徴的な情緒障害が起こる。情動を調整する機能に障害が起こって、ある情動から別の情動へと突然に激しく変化する。愛の感情が高ぶったかと思うと次の瞬間に激しい憎しみの感情に変化し、情動が目まぐるしく移行を繰り返し、調整が付かない。
 また、歓びを起こす刺激が、悲しみや怒りに変わる感情倒錯を生じさせたり、喜びのしぐさを示しながら悲しそうに泣くといった表情倒錯を起こさせる。最後には、目で泣き、口で笑いながら、相手を罵倒すると同時に、こころから敬愛を表現するという、情動が圧縮されて分離できない状態になる。
 「正常」な状態では、愛と憎しみは、はっきり区別される感情であり、「非対称」の関係にあるが、統合失調症の患者は、愛と憎しみを同じであるかのように扱おうとする。愛と憎しみを「対称的」なものとし、2つを包摂する、より高次元の成り立ちをした情動が、自分のこころの中で激しく活動しているのを彼らは体験する。そして、その無意識系の働きを意識の表面に手付かずのまま浮上させ、むき出しにしてしまうのである。
 こうした無意識の活動は、明らかに「対称性の原理」に従って働いているのであり、「正常」な状態にあっても生じよう。しかし、そうした情動が感情となって表面に現われてくるとき、「正常」な状態であれば、意識という「非対称化」の働きによって、高次元の成り立ちをした情動に対して、不均質化や分割や分離の作用が加わり、統合されたままで表面に現われることは決してないのである。
 精神科医マッテ・ブランコの研究論文に、以上のように述べられており、これはジークムント・フロイトが無意識の特徴として取り出したものと一致する。そして、ブランコは、無意識の本質について、次のように展開する。

<無意識の原理Ⅰ>
 無意識は、その個体が含まれる「種(しゅ)」または「クラス」にしか関心を示さない。物事が個体化する方向ではなく、一般化する方向に向かう傾向が強い。例えば、「人類」を「個人」のように取り扱おうとする。
<無意識の原理Ⅱ>
 通常の思考では、矛盾しないように、物事を分離し、不均質なものとして理解する「非対称性の原理」を守って行われる。一方、無意識の思考では、「非対称的」な関係をまるで「対称的」であるかのように扱おうとする。統合失調症に示す一例では、「ジョンはピーターの父である。だから、ピーターはジョンの父である。」というタイプの思考を進めるのである。

 さらに、ブランコは、無意識の原理Ⅱを「対称の原理」と呼び、そこから幾つかの帰結を引き出そうとした。それが次のものである。

・「対称の原理」が適用されるとき、時間的継起はありえない。
・「対称の原理」が適用されるとき、部分は全体と必ず同一となる。
(要約引用ここまで)

 このように、統合失調症の者の思考は「対称性無意識」にあふれ返っており、感情の高まりは凄まじいものがあるようだ。
 しかし、「対称性無意識」を100%抑圧してしまうと、それはコンピュータの世界であり、喜びも悲しみも何もない、無味乾燥の何とも味気ない人生となってしまい、人はそれをよしとはしない。
 やはり、人は、「対称性無意識」が豊かであって、それが表に現れる段になって意識を働かせることにより、「正常」な人として、いつまでもしあわせな楽しい人生を送りたいと願うものなのである。
 そして、「美しい」と感ずるこころも、「対称性無意識」から生まれ出てくるのではなかろうか。第1部の中で「真理は美しい」と小生は何度も言ったし、アインシュタインもそうであった。
 ところで、人が「美しい」と感ずるこころの仕組みはどのようになっているのであろうか。小生の思いを述べさせていただこう。
 人の感情として「怒・喜・悲・恐」などの情動が生ずるが、これは単なる反射的な反応として位置づけられ、「笑う・泣く・叫ぶ」などは、その感情表現にすぎないであろう。
 次に、人は「しあわせ」とか「楽しい」と感ずるこころがあるが、これは、1つまたは複数の情動が満たされた結果として生ずるものであって、つまり、欲望が満たされた状態の感情であろう。
 そして、これらとは次元が違うものとして、「美しい」と感ずるこころがあるように思われるのである。
 例えば、道端に可憐な花が一輪咲いていたとしよう。この花が自分の手に入っても入らなくても、同じように「美しい」と感じられ、欲望とは無関係で生ずる感情であるからである。
 その源泉は「自己と対象物の同質化、一体化」ではなかろうか。そうであるから、自分の手に入らなくても「美しい」と感ずるのであり、ちぎり取って自分のものにしようとはしないのであろう。
 そして、印象派の絵画を眺めたときに「強くこころがひかれる」と感ずるのは、統合失調症患者の症例のように、非対称なものを同質化しようとする「対称性無意識」が十分に働き、自己のこころと絵画が一体化し、その結果として「美しい」と感じ取っているのではなかろうか。同様にして、新緑の木々や澄んだ青空といったものに対しても、「美しい」という感情が湧き出してくるのは、自己のこころと対象物の一体化によるものであろう。
 この「美しい」という感情が深まりをみせてくると、対象物が果てしなく広がって、宇宙の全ての事象、つまり宇宙の摂理と自己のこころが一体になることにもなってしまうのであろう。これは、ブランコの「対称の原理」から導き出された「部分は、全体と必ず同一になる」という「無意識の原理」からも、そう言えると思う。
 もっとも、無意識のもとに宇宙の摂理の全てを感じ取り、その全てを意識の世界に浮上させることは不可能であろうが、バラモン教徒は、それを追い求めて、「ブラフマンとアートマンが一体になる」こと、すなわち「梵我一如」が真理であると考えたのは、こうしたことに根差しているように思えるのである。そして、彼らは、きっとこれを「美しい」と感じたことであろう。
 人の体は小宇宙であるとも言われる。人体は60兆個の細胞からなり、100兆個の腸内細菌と共生し、皮膚にも1兆個の常在菌が住むなど、膨大な生命が宿っている。そして、そこにおける生命活動は、様々な物理的現象や化学反応のもとに成り立っており、これは、大自然のあらゆる事象の縮図のようでもある。
 つまり、「人体における事象と大自然の事象」は「部分と全体」の関係にあり、そして、また、それらは同一の法則によって支配されているのである。これを無意識の自己が感じ取っていたとすると、どういうことになるのであろうか。
 このように思い巡らしていくと、宇宙の摂理の一部であるところの、ある現象を支配する法則、例えば物体の落下運動を眺めるなかで、これを単純な数式 y = a x² (放物線)で表わしてみて、この数式を「美しい」と感じたら、それは真理をつかんでいることになるのではなかろうか。この例の場合は、高いところから飛び降りたことがあるという実体験がたいていの人にあるから、自己と物体の法則が容易に一体化し、より普遍的に「美しい」数式として認知されることになるのであろう。
 こうしたことから、法則の解き明かしをするに当たっては、アインシュタインが言うように、「自分で体験する以上に良い方法はない」のであろう。もっとも、実体験できない現象となると、法則の解き明かしが難しくなるであろうが、想像をたくましくして、推理に推理を重ね、ひたすら仮想体験をする中で、自己と法則の一体化を探し求め、そして「美しい」と感じる数式が思い浮かんだら、それが真理である可能性が高いと思われるのである。
 なお、アインシュタインの相対性理論における、空間のゆがみや時間の遅れというものは、実体験できない現象であるから、推理不能と思われるかもしれないが、推理の取っ掛かりは体内にある。
 視覚というものは、光の刺激を両眼の2次元球面の網膜に映し出し、そのゆがみに負のゆがみをかけて2次元平面に直し、両眼からもたらされた2つの2次元平面の画像の差を利用して奥行きのある3次元立体を脳の視覚野において作り出すのであるから、空間のゆがみは、無意識の世界では常識として経験していることである。そして、眼から脳の視覚野への神経は左右の眼で長さが異なり、伝達に時間差が生ずるから補正する必要があり、時間の遅れというものも無意識の世界では、また、常識である。
 アインシュタインは、たぶん推理に推理を重ねる中で、こうした無意識の世界の常識を働かせることによって、自己と宇宙原理の一体化を感じ取り、相対性理論を思いついたものと想像されられるのである。
 また、第1部で紹介した小生の脳に思い浮かんだ「Em宇宙モデル」がどのようにして生まれ出たのかを考察してみると、無意識の世界において、次のように自己と宇宙原理の一体化が起きたとも考えられないではない。
 地球も銀河も「すぼんだ」状態を作り出したがっていると、小生は感じたのであるが、これは、引力でもって周りの物質を吸収しようとする万有引力の法則をそのように感じ取ったのであろう。
 一方で、人体は、中医学で言うところの「元氣」(光などのエネルギーのほか酸素などの知覚できない物質を含む概念と言えよう)を絶えず吸収して生命を維持しているのであり、ここには「氣」を吸収しようとする動物の本能とでもいうべき法則がある。
 この2つの法則には「吸収しよう」という同質性があり、無意識の中でそれが一体化したがゆえに、「美しい」と感じ、これぞ真理であると直感したのかもしれないのである。
 以上に紹介した小生が思うところの、「美しい」と感ずるこころの仕組みの全容は、まだ漠然としたものであり、とても真理に達しているものではないが、何となく当たらずとも遠からずの感がしてならない。本件については、これをお読みになった貴兄貴姉のご意見を是非とも拝聴したいところである。

3 神話は無意識が行う対称性思考
 人が「対称性無意識」を豊かに持ち合わせている、こころ優しい社会がある。いや、正確には、あった。それは神話の世界である。
 神話は、その昔、世界中の民族に数多くあったが、唯一神によって神々が次々に殺されてしまい、語り継がれなくなり、無視されている。語られたとしても、単なる教養として知識を得るだけであり、人々の生活に奥深く入り込むことはまれとなった。
 また、日本のように神話の力で国を統治し、国民を悲惨な運命にさらしたことにより、神話の評価は下落し、拒否されるまでに至った。しかし、日本人のこころは、まだどれだけか神話のこころが残っているし、世界の狩猟採集民においてはそれが根強い。
 神話の思考方法は、芸術の世界や統合失調症の世界と共通するものがあり、そこにはこころの豊かさがある。引き続き、中沢新一氏の著書「対称性人類学」から、その要旨を紹介しよう。

 神話の思考方法について、これまでに幾つかの例を示したが、それらをまとめると次のようになる。
① 現実の世界が「非対称」な関係で作られているのをみてとった神話は、その関係を反転し、「対称的」な関係に作り替える。
② 3次元の空間に収まり切らない高次元なリアリティを表現しようとする。そのため、イメージの圧縮や置き換えが頻繁に行われる。
③ 全体と部分がひと繋がりになるような思考方法をとる。
 狩猟採集民など国家を持たない社会では、今でも、神話は、狂信を引き起こすのとは反対に、人々の熱狂を覚ます知恵の宝袋であり続けている。それどころか、「非対称の思考」が暴走を起こして傲慢に膨れ上がった知性の乱用が横行することに歯止めを掛け、自然と人間との関係に致命的な破壊がもたらされるのを防いできたのは、ひとえに人々の心に神話が生き続けていたからに他ならない。神話は、むしろ人類に正気をもたらしてきたのである。
 その神話の世界と同じように「無意識の働き」にナイーブな通路を開いているに過ぎないこころの持ち主たちは、現代社会では、病理の扱いを受け、排除されるのである。
 私たちは、あらゆる偏見を乗り越えて、「無意識の思考」のもとに、「対称性の論理」が作り出す新世界に向かって新しい航海を始めようではありませんか。(要約引用ここまで)

 このように中沢新一氏は結んでおられる。小生も全く同感である。気違い扱いされる芸術家にしろ、統合失調症の者にしろ、神話の世界に生きる狩猟採集民にしろ、高度文明社会に生きる現代人がほとんど使わなくなってしまった「対称性の思考」を豊かに持ち合わせているのであり、人の本質的なこころを失っていないからである。
 なお、ここで日本神話について一言しておかねばならない。荻野偵樹氏の著書「歪められた日本神話」(PHP新書)と武光誠氏の著書「日本人なら知っておきたい古代神話」(河出書房新社)の2冊からの要旨に、小生の見解を足し合わせて紹介しよう。

 戦後教育において、天皇家のものとされる日本神話を教えることはタブーとされた。天皇が神の子であることを拒否したからであり、加えて、日本神話は天皇家による捏造であり、また、一部の史実を神話化したものであって、本来の神話ではないという主張が圧倒的に強かったからである。
 しかし、これは事実誤認である。和銅5年(西暦712年)に完成した古事記の上巻に日本神話が収められ、理路整然としたものであったが、養老4年(西暦720年)に完成した日本書紀(全30巻のうち1巻と2巻が日本神話)では、神話の各段ごとに「一書に曰く」で始まる異伝が幾つも並べ立てられている。各段の最初に登場する本文だけを繋ぎ読みしていくと多くの矛盾を生じ、一貫性がない。そうなったのは、その編者たちが、様々な言い伝えを正確に後世に残そうとしたものであることに相違ない。
 また、日本書紀の神話には、縄文時代に作られたと思われる日本固有のものがある一方、明らかに航海民により東南アジア・太平洋諸島から移入されたものがあり、また、5世紀に朝鮮から騎馬民族伝承が、6世紀に中国からペルシャ系神話(ギリシャ神話と酷似)が持ち込まれたと考えられ、まさに、国際的な神話の融合のもとに日本神話は成り立っており、誰かが意図して勝手に作り上げたものでは決してない。
 大陸から隔絶された日本であり、そうやすやすと異文化に馴染むものではなかろうに、「ものがたり」文化だけは不思議と例外的に流入してきている感がする。小生にはそのように思える。 
 これは、どうも万国共通のようであり、近代においても、著名な文学作品にしろ、童話にしろ、文化の壁を越えて世界中に広まり、愛読され、そして読み聞かせられている。
 馴染めないはずの異文化から発信されたものであっても、文学だけは人のこころをつかむ力があるとも言えるが、それだけではなさそうだ。それ以上に、人は皆、「ものがたり」に飢えていたのではなかろうか。その飢えが、あらゆる文学を吸収しようとして、国家や民族や異言語の壁をも溶かしてしまったと思えるのである。
 日本神話について、その国際性を我々に馴染みの深い神話から取り出してみると、「オオクニヌシノミコト」と「イナバノシロウサギ」は日本独自の神話であり、こころ温まる内容である。「天の岩戸」と「ヤマタノオロチ退治」はギリシャ神話と全く同じと言ってよいほど酷似し、残虐性に満ちた内容であって、日本で自然発生した物語とはとても考えられない代物である。
 戦後において最も毛嫌いされる神話は「国譲り」と「天孫降臨」であるが、「国譲り」は万国共通の筋書きになっており、これは中央集権国家の誕生を物語にしたものであり、世界のどこかの神話が元になったものの、類似するのは自然の流れである。そして、「天孫降臨」は、朝鮮の神話を取り入れたものであって、時代が先行する高麗建国神話に固有名詞を入れ替えれば、ほぼ完全に一致する。
 なお、「天孫降臨」とは、日向国の高千穂の峰に神が天降って、人の世界を納めることになったとする神話であり、日向三代の後、初代天皇の神武天皇が誕生するまでの物語である。
 この間に、「海彦・山彦」神話が登場するが、東南アジア系の神話に類似するものの、兄弟争いで兄が降参すると弟は兄を快く許したという、日本的文化性の強い内容が継ぎ足されている。
 こうして、日本神話は、まさしく世界文学全集ダイジェスト版として日本人に広く愛読され、語り聞かせられてきたのである。
 その日本神話に一貫して働いている論理は、当然にして万国共通の「神=人間=動植物=水や土などの自然物」であり、また、死の世界への出入り口があって何度も死んでは生まれ変わることも平気であるなど、「対称性」の世界に満ちあふれている。
 また、「部分が全体」という論理も存在し、現代でも実行されている行事すらある。先に紹介したクワキュツル族のハマツァの儀式と同様なパターンであるが、天皇の即位式である大嘗祭の中の「真床追衾の儀」がそうである。天皇に即位しようとする皇族は、神ではなく単なる人間である。その皇族がいったん衾(寝具)にくるまって姿を隠し、衾の中で秘儀を行った後に再び出て来るというものである。これは、人間がいったん死に、衾の中で神の力を取り入れて、神となって再生することを表わしているとされている。
 神権を得た天皇という現人神の誕生であり、あの忌まわしい戦争を想起させ、ゾッとする恐ろしさを感じさせる儀式であるが、諸国を平定し、民に平和と豊穣を与えるという聖君政治を願えば、こうした「部分が全体」という論理が働いても決しておかしくはない。
 今日では、そうした神話は、皆でたらめであるとの一言で片付けられてしまうが、古代日本人の手による「オオクニヌシノミコト」の一連の物語はこころ打たれるものがあり、豊かなこころを養ってくれる。少なくとも、この部分だけは是非とも語り継いでもらいたいものである。

4 日本社会における対称性の思考
 神話の世界の思考やその論理を全て排除せねばならないとされるのが、現代の高度文明社会である。
 その社会においては、皆が「非対称性の論理」を徹底させられ、「正常」とされる精神とは、物事を何もかも分離、分割して捉え、決して同質化、統合化しない状態にあるものとされているのであるが、これぞ「精神分裂症」であり「統合失調症」であると言える。
 これからの社会に求められる、真に「正常」なこころの状態とは、脳に機能障害を起こした統合失調症では困るが、物事を同質化し、圧縮し、象徴化し、抽象化するという「対称性の思考」を働かせた「精神統合性」の状態にあることである。
 自然科学の新分野を切り開いたアインシュタインやハイゼンベルグがそうであったし、芸術部門の絵画における浮世絵師の葛飾北斎やその影響を受けた印象派や抽象派と立体派がそうであるように、彼らは皆「精神統合性」の持ち主であった。
 加えて、日本人はまだまだ神話の世界に生きており、山という山には皆、神々が住んでおり、山を荒らしてはならぬ、必要に迫られて木を切るには許しを請い、切ったら当然にして植林しなきゃいかんとする考えが残っている。現代においては、多くの人が神はいないと考えるが、それでも決して山林を切りっ放しにせず、植林をする。そうしないと山崩れが起きるからなどと、理屈で考えたりしない。当然に植林をせねばならないものと「直感認識」するのが、神話の世界に生きている証拠である。
 幕末の頃に、欧米人が、日本人の描いた植林の絵を見て、なぜにこのようなことをするのか、理解できなかったそうである。彼らにしてみれば、山から木を収奪することは当然のことであって、山崩れが起きれば、下流に被害が生じないようにダムを造って土砂の流出を防げばよいと考えるだけなのである。
 やっと近年になって、これでは「人間が自然に負けてしまう」と考えて、環境保護を始めたのであるが、思想が根本的に違う。
 人間が物を支配するという発想に変わりはない。だから、自然との関わりも、上に立つ人間が下に位置する動植物を「保護」するという観念しか登場しない。そこには「非対称性の論理」しか働いていないのである。
 古来より日本人は、動植物はじめ自然物も神であり、多くの神々と一体になって平和な共同体づくりをするという「対称性の論理」のもとに、人と自然が共生を図り、豊葦原瑞穂国をつくってきたのである。そして、自然に対する畏敬の念をずっと持ち続けてきた。こうした文化を残している先進国は唯一日本だけである。
 世界には、先進諸外国をはじめ、唯一神を信仰する文化が圧倒的に多い。そうした文化は、唯一神が他の神々を皆殺しにしてしまったがゆえに、個々の自然物そのもの一つ一つに対する畏敬の念は生まれようがない。何か困ったら、手の届きそうもない唯一神にすがるしかないのである。その唯一神信仰の質が悪いところは、人間を生き物の上に置いてしまったことである。
 つまり、自然との共生を拒否したのである。なお、このことについては、同情の余地はある。激しい旱魃などの自然現象に度々苦しめられれば、大自然を恨む気持ちになってしまうからである。
 そして、旱魃を経験する中で大衆化した仏教においても、その傾向が見られる。仏を唯一神にし、ただ念仏をとなえれば救われるとするのは、全くの同類であるからだ。拝む対象は仏像の数だけいろいろあるが、それは唯一神の仏が姿を変えて登場しただけのことであり、神の子イエスと同じである。
 こうした信仰においては、自分と身近な者だけが救われればよいのであって、人と自然の共生は眼中になく、決して自然との共生は成り立ち得ないのである。
 これらの信仰は、唯一神(仏)に全てを任せる他力本願であり、自らが考えることを放棄し、ただひたすらすがるのみという形をとる。ここには、人の思考が働く余地が全くない。唯一神(仏)によって、人は人のこころを喪失させられているからである。
 日本は違う。世界にまれにみる豊かな自然環境が変わることなく保ち続けられたがゆえに、八百万の神を信ずる多神教の世界でずっと暮らしてこられた。こうした世界では、「信仰」とは、神仏にすがるのではなく、単に神仏は存在するという意識があるだけである。
 従って、ことあるごとに、あるときは山の神に、あるときは川の神に、そして、あるときは仏に対して、自分たちがどう立ち振る舞ったらよいのかを、神仏と一体になって考えてこられたのである。 
 そうして得られた結論が、日本古来の独自の神話であり、民話であり、言い伝えである。当然にして地域の自然環境の違いにより、内容が少しずつ異なったものとなり、また、開発に伴う環境の変化に合わせて内容が変化してきているのである。
 そして、あらゆる神仏を敬いつつ、豊穣の祭などを行って、神仏とともに喜びを分かち合うのである。神仏は近寄りがたい存在ではなく、ごく身近な存在であった。こうして、喜びも悲しみも神仏と共有できる、こころ豊かな文化が育まれたのである。
 このように、日本の宗教文化は先進諸外国の民族と全く異なる。極端に言えば、神仏と自己の同居である。
 神仏と自己の同居については、バラモン教の「梵我一如」の思想と共通するものの、これは、人間の理解を超えるほどに両者の距離が離れているから、同一視できない。これよりも、アマゾン下流域を放浪するグアラニ族の思想である「人間は確かに人間であるが、同時に人間にとっての他なるもの、すなわち神でもある。神ー人間、人間ー神である。」というものに、より近いものである。
 日本では、神仏は超越者ではなく、特に、八百万の神々は神社の拝殿という手が届く所にいらっしゃるのであるから、自然の摂理というものも、間近な存在の神々と一緒になって思考し、十分に認識し得たのである。こうして「対称性の思考」が育まれてきたのである。
 この日本文化の思想の本元であえる「対称性の思考」や「対称性の論理」を、今一度復活させる必要を痛感する。
 小生が思うに、そうした認識の集合が大自然の摂理であって、大自然の真理であり、これは、一神教の世界の人々のように人の知恵では到底分かり得ないものと考えるのではなく、多神教の世界の人々はその思考力でもってその多くを知る得るというスタンスを取ってきたのであろう。

5 これからの科学のありかた
 こうした観点からすると、アインシュタイン自身は、唯一神という超越者が存在するという文化で育ったがために、相対性理論についても真理のほんのちょっとだけしか知り得なかったと考えるのであり、先に小生もそれに同意したが、実はそうではなくて、彼は宇宙の真理について多くを知ったと思われるのである。
 従って、アインシュタインをもっと評価してよいということになるかというと、そうでもない。なぜならば、超越者である「神=全宇宙」として知らねばならないことと、人間として知らねばならないことは、全く別物であるからである。
 宇宙の構造なんぞは、人間にとっては完全に趣味の世界のことであり、実生活には一切役立たないものであるから、これ以上知る必要は全くないのである。極論すれば、銀河の相互関連性という華厳経の宇宙観で必要かつ十分である。
 さて、人間として真に知らねばならないことは、いったい何であろうか。これを真面目に考えねばならないのである。
 その昔、どこでも国王は神の子であった。日本の天皇だけではない。全ての国家においてそうであった。これは、国王からの押し付けではなく、その国の民がそれを望んだのであろう。国王は神の子であってほしいと。そして、神の子は全知全能であるがゆえに、自国や周辺国の状況を十分に認識し、その国の民全員を守ってくれると信じた。
 そうしたことから、神の子は、イラクの危険地域がどこであるのかを知っておかねばならないのである。しかし、小泉純一郎氏は、総理大臣のときに「どこが非戦闘地域か、私が知るわけがない。」と言い放った。神の子としては許されざる発言である。総理が神の子ではないから許されるというものでもない。国家、日本国という法人の最高責任者であり、官僚の頭脳の結集により全知全能であらねばならないのであるから、決して許されない発言なのである。
 しかし、国家が全知全能である必要がどこにあるのか。確かに国家という法人としては必要であろう。世界には100を超える国家があり、国家という法人同士の権力争いには必要である。
 だからといって、個々の人間には無関係なことである。国家という法人は、今や人間を苦しめるためにのみ存在し、ないほうがよい。
 従って、日本人個々の人間にとっては、「私がそんなことを知るわけがない。」でかまわないのであり、全く知る必要のないことである。小泉元総理はそこをうまく突いた。小生は、そう捉える。
 国家の枠を超えた国連は、全世界のことについて全知全能を求められる。国連も法人であるからだ。個々の人間には、そんなことはどうでもよい。さらに唯一神という、これも人間が作った絶大なる権利能力を有する法人であるが、地球を越えた宇宙について全知全能を求められる。これも個々の人間にはどうでもよいことである。
 人間は、古代文明の発生以降、神や国家に踊らされて、無用な科学の追及ばかりやってきていると言っても過言ではない。
 なぜならば、神という法人や国家という法人が、それを求めるからである。そして、神や国家が喜ぶ学問そして論理が採択され、それが正しいとされ、人間はそれに従うことを求められてきた。
 近代に入り、西欧においては、キリスト教会が弾圧してきた自然科学や人文科学が芽吹いたのであるが、聖職者に代わって、国家の支配者の都合の良いように利用されているだけであり、人間にとっては、本質的に無用の分野ばかりと言えよう。
 物理学や化学は、国家が重要視する軍事のための武器弾薬や輸送手段の開発に最優先されるように誘導されたし、また、医学も、戦争における軍人の傷病治療のために発展させた。経済学は、産業革命以降、国富のための資本主義制度の確立に貢献させられたのであり、政治学の中で考えられた民主主義制度も、中央集権の強化に都合のよい仕組みに作り上げられた。
 その結果、一般庶民は、よりいっそうの大量虐殺の危機にさらされ続けるのであり、また、社会経済の大変革で人間性を喪失するという過大な犠牲のもとに、富国政策により派生した物質文明のおこぼれにあずかっているだけに過ぎないのではなかろうか。
 そうした先進文明国が受ける恩恵も、低開発国からの資源略奪と自然破壊のもとに成り立っており、これが、低開発国に経済混乱を引き起こし、それからくる政情不安に付け込んで死の商人が暗躍し、さらなる悲劇を生むという犠牲を強いているのである。
 こうした国家戦略によって歪められた科学に加えて、神の領域の科学への侵犯があることも忘れてはならない。宇宙物理学については、先に述べたとおり神の世界の真理解明であって、この研究に国家予算を注ぎ込むことは、優秀な人材と貴重な税金の無駄遣い以外の何物でもない。
 原子や素粒子という超ミクロの世界を扱う量子物理学も同様に神の領域である。大自然を構成する基本物質である原子を人為的に造り変えるとどうなるか。それは、原爆であり、水爆であり、神の怒りに触れるのである。そして、核分裂からエネルギーを取り出す原子力発電や、研究が進められている核融合も同類である。原子力発電所については、すでに何度か神の怒りに触れて、これを拒否する考えが生まれ、ブレーキがかかってきたものの、素粒子や核融合研究は、巨大な円形加速器や核融合炉の建設などに膨大な国家予算を注ぎ込まれるなど際限がない。
 今以上に、超ミクロな世界が解明されたからといって、何になるのか。岐阜県飛騨市にあるカミオカンデで、素粒子ニュートリノの検出に成功し、ノーベル賞を受賞された小柴昌俊氏は、それが何の役に立つのかという質問に対して、「役に立たない。夢を追っているのだ。」と答えておられる。正直によく言われたと感心するものの、つまり、そこには全く価値がないのである。

 このように、科学のゆがみは、近代化が進むに比例して、あらゆる分野で顕著なものとなってきており、放置すれば歯止めが利かないところまで到達してしまう恐れすらある。
 これを防ぐためには、近い将来において、国家が間接的に巧妙に弾圧し続けている「人間科学」なるものが芽吹かねばならない。
 それは、人間の人間による人間のための科学の復活である。国家の国家による国家のための科学であってはならず、神の神による神のための科学であってもならない。その「人間科学」については、自然科学の分野においても、太古の昔の人々のほうがよく知っていたように思われる。
 その1例を紹介しよう。紀元前の西北インドにおいて、釈迦と同時代に活躍した、マハーヴィラが開いたジャイナ教の教えである。
 紀元前の時代において、既に細菌学の本質を究めており、それを踏まえて、生水の飲用を避けることとマスクを着用することを信者に勧めている。「食」学に関しても、動物食を避け、植物食とし、かつ、定期的に断食することによって、はじめて健康が維持できることを知っており、これを信者に徹底させもした。
 そして、人の社会を平穏にする道は、蓄財をしないことであるとし、必要最小限を越える財産の「不所有」を守らせたのである。この戒律、これは「ジャイナ教経済学」と呼んでよいと思うのであるが、他にはない独特のものである。
 ジャイナ教の教えは、ほとんど変化することなく、今日まで続いている。その戒律の厳しさもあって、信者はインド人の0.5%に満たない少数宗教であるものの、特筆すべきことは、ジャイナ教徒の商人は「不所有」の観点から暴利を貪ることをしないので、信用が厚く、その実績により、現在のインド経済界で確固とした地位を築いていることである。そして、彼らは、限度を越える利益が生じたら、学校建設やその維持などに寄付している。
 もう1例を紹介しよう。それは、北米大陸のアメリカ・インディアンである。彼らは医学と薬学に長けており、漢方医学よりも優れた面させ持ち合わせていた。動物食によりどんな病気が発生し、それを癒す草木は何であるかを知り尽くしていたのである。これは、彼らの社会制度がうまくできていたことに起因する。大きな集団である部族の中に幾つかの小さな集団の氏族があり、その一つの氏族、一般に「熊族」と呼ばれるが、その氏族が医学と薬学の研究・実践を世襲制で部族のために実行していた。こうした仕組みであったから、必然的にその能力は高まろうというものである。
 そして、アメリカ・インディアンは、ジャイナ教の「不所有」に通じる「ギブ・アウェイ」という風習を持っていた。他人に自分の所有物を「やり尽してしまう」のである。財産の単なる所有者は「物」を死なせてしまうだけであり、その「物」を常時必要とする者が使うことによって「物」が生きる、とする経済学である。
 さらに、彼らの社会は絶賛に値する。崇高な平等観念のもとに、成熟した民主主義制度を構築していたのであるから。
 しかし、彼らの社会は、ヨーロッパからの侵略者によって徹底的に破壊され、わずかに生き残ったものの、その後の米国政府の同化政策の強化によって、その多くの文化が失われつつある。
 世界の各地、各民族ともに、もともとはこうした「人間科学」があったはずであるのだが、文明の発展とともに、それが少しずつ消し去られ、かつ、間違った科学が正しいとされるようになり、特に産業革命以降の資本主義経済化とともに非常に顕著なものになってきてしまったのである。
 我が日本においても全く同様である。1例として、明治時代に「人間科学」が切り捨てられた悲しい出来事があった。しかし、国家により、その学界ではそれを忘れ去るように仕向けられ、今日、それは風前の灯となっている。
 それは、「森鴎外事件」である。
 江戸時代に世界一豊かな庶民はと言えば、それは江戸の町人であった。飽食を満喫し、それがゆえに白米の多食を行った。これにより発生したのが「脚気」である。当時はその原因が分からず、「江戸患い」と呼ばれていた。これは大坂の町人にも発生した。
 明治になり、富国強兵政策が取られ、農家の次男坊、三男坊を兵隊に募集した。当時の彼らは、家に残っても長男のスペアとしての存在でしかなく、軍人になれば嫁さんがもらえるという大きな利点があったが、何よりも彼らを引きつけたのは「1日に3度も白い飯が腹いっぱい食える。」というご馳走であった。雑穀しか食べていなかった彼らであるから、これは大いなる魅力であり、質実剛健な男達が軍隊に殺到したのである。
 そこで発生したのが脚気であり、4人に1人が発症した。原因不明なるものの、明治18年に兵食を麦飯にしたら、発症がピタッと留まった。海軍はこれを続けたが、陸軍は明治27年の日清戦争から、何と、再び白米食に戻してしまった。
 それによって、陸軍では再び脚気が発症し、日清戦争での病死者は戦死者をはるかに超える4千人にもなった。白米食はその後も続けられ、日露戦争では病死者は実に2万数千人という恐ろしい数にのぼった。乃木大将の突撃命令で203高地を駆け上がろうにも、質実剛健な兵士は皆無に等しく、1万人近い戦死者も出した。
 日本海海戦において、毎日麦飯を食べて質実剛健な水兵からなる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を木っ端微塵に粉砕してしまったのとは大違いである。
 陸軍に、どうしてこのような悲劇が発生したのか。それは、ドイツ医学の権威者で陸軍軍医のトップに就いた森鴎外が、脚気伝染病説に固執し、加えて、自分の著した白米万能の陸軍兵食論を最高の栄養学としたからである。また、乃木大将が、森鴎外に絶対的な信頼を置いていたから始末が悪い。
 陸軍のトップである乃木大将は責任を取って自害したが、森鴎外はその後ものうのうと文筆活動を続け、今日でも偉大な文化人として高く評価されているのである。戦後に発行された文化人切手にもその顔を連ねており、政府公認の偉人である。
 こんなことがまかり通る日本であるから、薬害問題も後を絶たないのである。小生がこの事件を知ったのは10年ほど前のことであったが、にわかには信じられず、果たしてこれは本当に真実かどうか裏を取らねばと思った。その後、それを書かれた方と師弟関係にない2人の別の人が同じことをおっしゃっているのを知り、また、病死者の数が三者三様でもあった。当時、病死者の数は決して公表されなかったであろうから、軍当局のどこかから漏れたものであろう。だから、数に相違が出たと考えられ、この事件は、病死者が不明確ではあるものの、間違いのない事実であると考え、こうして紹介している。
 加えて、小生が思うには、森鴎外は白米食が脚気の原因であることに早々に気づいていたであろう。部下の軍医から兵食を麦飯に改めるように進言もあったという。
 しかし、それを認めたら自分の権威は丸潰れであり、職も辞さねばならない。兵食論は一言も改訂してはならぬ。脚気で死ぬのは兵隊であり、彼らは虫けらであって消耗品的兵器に過ぎないのであるから、一切問題ない。兵隊は食べたことがない白い飯が腹いっぱい食えると喜んでいるのだから、それでいいではないか。兵隊の募集も大変に楽であり、大量に死んで不足したとしても、その調達は甚だ容易である。森鴎外はそのように考えたであろう。
 ただそれだけではない。森鴎外は官僚としても実に優秀であった。脚気の原因が白米食であると分かってしまったときに備えて、陸軍兵食論には「白米にタクワン」と書いておいたのである。内地では白米食にどれだけかのタクワンが添えられたではあろうが、戦地へまで十分に補給できたかは定かでないし、多分できなかったであろう。兵隊の調達は直ぐにできても、タクワンを大量に直ぐに調達することは不可能であるからである。
 加えて、タクワンをどれだけか食べるにしても、米糠で付け込んだタクワンにはほんの少しビタミンB1が浸み込んでいるだけであり、脚気を防ぐには全くもって不十分である。しかし、言い逃れはできる。脚気症状が出たらタクワンをしっかり食べればよかったのに、それをしなかった者が悪い、という屁理屈が通るからである。これが官僚的発想というものである。これによって、責任は自分にないことになるのである。
 実際、その後、脚気の原因は、米糠に含まれているビタミンB1の欠乏であることが発見されたのであるが、森鴎外は何ら責任を追及されなかった。
 これが、国家の論理に基づく正当な兵食論であり、国家の論理に基づく正当な栄養学であるのだ。小生はこれに怒りを隠せない。
 これは氷山の一角であり、過去にこうした出来事が幾つもあったかもしれない。そして、今、起きようとしている出来事で、警告を発せねばならないと思われる、危険性を有した事実も幾つかある。
 その最大のものは、「冷蔵庫文化」による悲劇である。
 すでに、これは悲劇の火蓋が切って落とされて久しい。30年ほど前から発生した原因不明の難病そしてリウマチと花粉症の急激な増加である。
 現代の日本人や米国人は異常に冷たい液体類を年中飲んでいる。これに対して、西欧では飲み水に氷を浮かべないし、冬にはビールを燗して飲むくらいであり、がぶ飲みもしない。西欧の夏は日本や米国に比べて気温がうんと低いから、そうした飲み方になるのであり、また、液体類の多くは常温保存が可能であり、よって西欧人は腸を冷やし過ぎることがないのである。
 こうしたことから、西欧にあまり見られない病気や症状が、近年になってから日本と米国に数多く発生しだしたのである。
 この論を主張する医学・健康学者は数知れているし、これが政府やマスコミに取り上げられる例は皆無である。
 それはなぜか。資本主義経済の仕組みがそれを許さないのであり、また、それを基盤とする政府が知っていても言わないからである。森鴎外事件と全く同じ様相を呈している。

 「人間科学」を正しい道に戻し、それを推し進めていくためには、国家の論理である「ロゴスの論理」に基づいていては如何ともし難い。忘れ去られた真理の復活も新たな発見も望み得ない。
 「冷蔵庫文化」による悲劇の詳細は省略するが、これを解明された西原克成氏は、ヒトは1個体としての生物として存在するのではなく、ヒトは膨大な数の生物の複合体であるとの認識から出発されている。正しい「人間科学」を切り開いていくためには、こうした人間の論理である「対称性の論理」から出発しないことには駄目なことは言うまでもない。
 加えて、人間が本当に知らなければならない分野はわずかでしかない。その範囲においては人間の能力に限りはない。従って、誤解を恐れず申し上げるが、全知全能も不可能ではない。
 アマゾン下流域を放浪するグアラニ族の思想のように、自らが神となり、同時に人間として、人間のための真理を探訪すれば、必ずや必要とする全ての真理は明らかになるであろう。小生はそう思う。
 産業革命以降、人類の目指している方向はまことに危なっかしい限りである。特に、経済がグローバリゼーション化し、その経済の力によって、国家支配の基本的な枠組みである国境をも溶かしてしまわんとする勢いがある。資本主義経済という「魔物」が、国家をも飲み込んでしまい、国家に代わって人間を支配する様相を濃くしているのである。
 人間が新たに作り出した「魔物」によって、それこそ一神教の世界観である、人類の終末が訪れないとも限らない。
 決してそうなってはならないのであり、コンピュータの「2項操作」で代表される「2項論理」しか持ち合わせていない「魔物」に対し、人間は果敢に立ち向かわねばならないのである。その場合において、「魔物」の土俵である「非対称性の論理」のみで対峙していては人間に勝ち目はないのであり、人間しか持ち合わせていない「対称性の論理」を駆使しなければならない。
 そうすることによって、はじめて「魔物」を組み伏せることができるのであり、人間が真の人間を取り戻すことができるのである。
 これが特に自然科学の分野で早急に求められる時代、それが21世紀である。そして、それを切り開き得るのは、「0の文化」をまだ失っておらず、「3の文化」で育まれた「中庸力」を尊重する日本人が一番近い位置にいるのであり、日本人の責任は重大である。
 世界に貢献することが求められている日本である。
 これからの日本人がこうした「人間科学」を人間の論理でもって是非とも切り開いていってほしいと切に願い、それが実現されることを信じて、本論を閉じることとする。

 皆様には、長時間にわたり、ご精読賜りまして、深く感謝申し上げます。なお、最終節において、小生の自論である悲観的現状分析をくどくど申し述べましたがために、多くの方々がご気分を害されたことと存じますが、人類に大きな危機が迫れば、そのときそのときに、著名な、また、無名な誰かが登場してくれて、難問を解決してくれたのも、また、歴史の事実ですから、楽観的に構えても何ら支障がないことを申し添えておきます。
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昭和23年9月生まれの団塊世代人。    本名:三宅和豊              住所:岐阜県羽島郡岐南町三宅5-246  農家の長男として育ち、工業系の大学を卒業後、岐阜県庁に技術屋としてではなく事務屋として就職した変人。21年間県職員を勤めて、中途退職。父親が始めた薬屋稼業を平成6年に継いで今日に至る。平成12年頃から稼業の傍ら、母親の農業を手伝うなかで、百姓の魅力にとりつかれる。士農工商すべての身分を浅く広く何らかの形で経験していることが唯一のとりえである凡人。              著書は次のとおり。順次ブログアップ中。  随筆「ヤーコンの詩」(平成18年3月)   論文「食の進化論」(平成19年4月)   論文「新・学問のすすめ」(平成20年4月)論文「犬歯の退化」(平成22年9月)

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