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ぞっとさせられる横並び日本文化の進行

 これは、アメーバブログに投稿済みのものですが、このブログに再掲することにします。

ぞっとさせられる横並び日本文化の進行

 友だち何人かがレストランに入って飲食物を注文するとなると、誰かが食事は××、飲み物は××と言うと、私もそれ、私も、と同じものになってしまうケースが多くなる。それに対して欧米人の場合は、誰かが何か注文すると、自分もそれにしたいと思っても、あえて違ったメニューを注文し、皆バラバラになるのが一般的だそうだ。
 ここに日本と欧米の文化の大きな違いがよく表れている。日本人は没個性的で横並び主義、欧米人は個性的で自己主張の世界に生きているのである。
 どちらがいいのか悪いのか。これは、それぞれの国、民族に固有の文化であり、甲乙を付ける性質のものではないが、この世界が大きくグローバル化されてきており、仕事において、また日常生活において、異民族間の接触がいやがおうにも避けられない事態が増えてくる。
 となると、水と油の関係にある両文化が無理やり混ぜられるのだから、ギスギスする。冒頭の例の会食に際しては、日本人の立場からは欧米人は仲間意識が低い横着な人間に思え、付き合いにくい奴だと感ずるとともに、こいつはなかなかのやり手で一目置かねばならぬと考えるであろう。一方、欧米人の立場からは日本人は自分では何も決められない弱虫であり、無視していい人間に思えるが、その優柔不断さから何を考えているのか分からず不気味な存在として映るだろう。
 さて、そこで、両者が一緒に会食したら、どちらが勝利するであろうか。メニュー選択の有り様からすれば、欧米人はまずまず満足がいく食事が取れるであろうし、「横着・一目置く」と「弱虫・不気味」という受け止め方からして、その場における何かの交渉も欧米人に凱歌が揚がるであろう。
 これじゃあ困る。
 ところで小生はというと、接待か何かで格上の人との会食となればその人に合わせてしまい、“こんなクソまずいものをよく食うな”と思いながらも、”これ、うまいですねえ”と口を合わせる。ただし、気の知れた人たちとであれば、自分だけ違ったメニューを選択することになるのは度々だ。若干欧米風に染まってはいるが、どちらかといえば日本的といったところだ。

 木村氏の著「西欧文明の原像」(昭和49年発刊)から、先日引用した文のなかに日本人の特質として次の記述がある。

…自己をとりまく外界に、みずからを合わせつつ集団的に生きてゆくという精神態度…。…みずから主体的に戦うことなく「いい子」でいたい、むつみ合う「和」の関係のなかにみずからを安定的に位置づけたい…。

 これはこれでいいのかもしれないが、少々歯がゆく感ずる。小生は団塊世代の生まれだが、幼少の頃はわんぱく小僧が何人もいたし、中学高校時代には目だって面白い奴が何人もいた。こうした個性的な輩に憧れ、良き友になってほしいと接近・接触を試みたものだし、個性を発揮したいと努力もした。
 小生に孫はいないから、今どきの子供たちがどんなふうなのか、よく知らないが、小生の頃や小生の娘・息子の時代に比べ、1クラスの人数が随分と減っているようであるから、どれだけかは個人それぞれの能力を伸ばしてあげ、個性的な子供がまずまず育っていやしないかと期待していた。
 ところが、ギョッとする講演録に出くわした。読んで寒気を感じた。それを以下に抜粋して紹介する。(講師:××差別をなくす会座長、野澤和弘氏)

 日本の子供たちは、今ものすごく息苦しいんじゃないでしょうか?…中学2年生を対象にしたアンケート調査…そのアンケートの中に、「次の5つの中で、自分がもしこの言葉を誰かに言われたら、悪口を言われたのではないかと感ずるのはどれですか?」という質問がありました。…
 ① まじめだね
 ② おとなしいね
 ③ 天然だね
 ④ 個性的だね
 ⑤ マイペースだね
 今の中学生にこの質問をしたら、圧倒的に1つの答に集中しました。それは「個性的だね」でした。個性的とは、ほかの子と違うということですね。「ほかの子と違う」と見られるのが怖いんです。
 それは「仲間はずれにされる」とか「いじめの対象にされるんじゃないか」というイメージがあるからです。
 日本の子供たちには、常にほかの子と一緒でないといけないという強迫観念があるのです。
 私(1959年生)も子供の頃、いじめとか、そういう陰湿な子供の世界を経験したことがあります。
「仲間と一緒じゃないといけない」という意識はものずごく強いです。(※)
 日本社会では「集団主義」「横並び」「協調性」といったことがすごく大事…。
 この「異質なものを排除していく」という無意識の行動傾向や価値観が、新しい時代を創造していく子供たちの感性を抹殺してきたのではないか…(引用ここまで)

(注) この講演録のなかで※印を付した1文は、講師の子供時代のことなのか、今の時代の子供たちのことか、はっきりしない。文脈からは前者だし、小生の感覚では後者となるが。講師より一回り年長の小生の時代には、そうした意識は大してなかったように思うのだが、一回り違うと意識が大きく変わってしまったのか。

 これにはホント恐れ入りました。こんな子供たちをつくり出してしまったのは誰の責任だ、となると、やはり小生がその真っ只中にいる団塊世代でしょうね。
 3年近く前に記事にした「団塊の世代問題について再び考える」の中で多くを引用した、林信吾・葛岡智恭著「昔、革命的であったお父さんたちへ(副題:「団塊世代」の登場と終焉)」(2005年 平凡社新書)であるが、そのなかで団塊世代の特徴として次に文言が出てくる。

 感覚主義・没論理性…難しい議論は避け、分かりやすいキャッチコピーで自己表現しようとした…団塊世代ほど「論」と遠い存在はない。
 みんなで一斉に動かねば気が済まず、反対意見に耳を貸さないのも、この世代に多く見られる傾向である。
 イメージによる囲い込みに弱い…これこそ彼らの世代的特長だと言える。

 この論評からすると、団塊世代はやはり個性的ではなく、かつ、個性の芽を摘まむ厄介な存在となってしまいそうだ。
 現実に、その団塊世代が中間管理職となった頃、年齢が一回り程度下やその後の若者の個性の芽を摘んで無気力化させ、「新人類」と呼んで彼らを揶揄し、加えて、もう少し下の世代つまり団塊世代の子供の教育を自分たちの物差しでもって行ったがために没個性化させてしまったのであろう。さらに新人類の子供たちまで同じ運命にさせてしまった。それが先のアンケートに答えた中学生であり、また団塊世代の孫である。
 どうにもしようがない悪循環というか、責任回避になるが、これが日本文化の本質と言えるのでもないか。
 なんともお粗末。困ったものである。
 さて、どうしよう。反省は猿でもできるから、反省してみたって何の役にも立たないし、これから教育改革に取り組もうにも年を食いすぎているから、これも不可能だ。となると、残された道は、恥ずかしくない老後の生き様を後に続く世代に見せるしかない。団塊世代は、余生をどう生きようか、これを真剣に考えねばならぬ。
 団塊世代は来年から70歳代に突入するのではあるが、体力差・健康度はバラバラな状態にあり、「みんなで一斉に動かねば気が済まず」であってはならないのははっきりしている。大なり小なりガタが来た体であっても、それぞれがそれぞれにまだ動きそうなところに油を差して何とか動かし、それぞれが長年培ってきたそれぞれの固有の能力でもって、やれることをやりきることである。これが個性的な晩年の生き様となって表れるのであろうし、これでもってそれぞれがそれなりに社会に奉仕できることになろう。
 自分一人だけでもそうする覚悟をしているのだが、皆はどうなのだろう。間違っても「みんなが歩調を合わせて、揃って楽隠居を決め込み、年金を食いつぶす」なんてことになってはほしくないものだ。
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プロフィール

昭和23年9月生まれの団塊世代人。    本名:三宅和豊              住所:岐阜県羽島郡岐南町三宅5-246  農家の長男として育ち、工業系の大学を卒業後、岐阜県庁に技術屋としてではなく事務屋として就職した変人。21年間県職員を勤めて、中途退職。父親が始めた薬屋稼業を平成6年に継いで今日に至る。平成12年頃から稼業の傍ら、母親の農業を手伝うなかで、百姓の魅力にとりつかれる。士農工商すべての身分を浅く広く何らかの形で経験していることが唯一のとりえである凡人。              著書は次のとおり。順次ブログアップ中。  随筆「ヤーコンの詩」(平成18年3月)   論文「食の進化論」(平成19年4月)   論文「新・学問のすすめ」(平成20年4月)論文「犬歯の退化」(平成22年9月)

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