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道徳教育:日韓中台の違い

(これは、アメーバブログに投稿済みのものですが、このブログに再掲することにします。)

 日本・中国・韓国の食文化の違いについて、先に、ひょんなことから買った本「日本人は中国人・韓国人と根本的に違う」の食事編を抜粋要約して紹介しました。
 今回は、その本に道徳編があり、それを同様に紹介することにします。
 ただし、対談者「黄文雄(台湾)、呉善花(韓国)、石平(中国)」御3方(皆、日本に帰化)ともに道徳教育は大切ではあるものの、道徳教育そのものに悪い面が多々あり、その点を考慮せねばならないと言っておられます。
 小生も同意見で、極論すれば“時の権力の都合のいいように利用されるものであり、全否定すべきもの”と考えます。
 宗教界でも概ね同様のようで、真宗大谷派<浄土真宗東本願寺>の機関紙:同朋新聞で次のように謳っています。

(仏教の「ぶ」から始める入門講座vol.25よりの抜粋)
 私たちは「ああするべきである」「こうすべきでない」「せねばならない」「してはならない」と、決められた方向に近付くよう規制されたり促進されたりします。その設定された正解以外には認められず、そこから外れると、否定され、矯正され…ます。現代でも学校教育の中で「道徳」として国や教育審議会等が、人間とその関係あるべき姿を設定して、それに向けて善悪や正邪を押し付けてくるのは、時代状況の要請に都合の良い人間に育てようと、つまり人間を国家の材料として考えてのことでしょう。(引用ここまで)

 まず最初に、「でも、道徳って正しいことを教えるのだから、どれもこれも皆、大切なものばかりじゃないの?」とお思いの方に、この本の中から「そうじゃない」という部分をまず紹介しましょう。
黄(台湾) 近代ドイツの哲学者ニーチェは『善悪の彼岸』のなかで、道徳には強者の道徳と弱者の道徳があるといって、弱者の道徳は弱い者の強い者への反感からの自己正当化にすぎない、といった批判をしています。それに対して強者の道徳、たとえば貴族や君主の道徳は法を超えたものなのだ、というようなことをいいました。…
…北方アジアに発したシャーマニズムが昇華したものが儒教だといえます。それに対して中国南方は、道教あるいは老荘思想なんですね。この2つの考えは対立的なものです。老荘思想には、儒教の道徳を否定する考えがあります。荘子は儒教道徳の仁義を批判して、警察には警察の仁義があるし、泥棒には泥棒の仁義がある、それぞれ違うものだ、同じ一つの仁義でない、ということをいったんです。つまり、儒教には仁義とは何かという概念規定がないわけです。それで2000年間論争して、結局のところは、お前の考えている仁を俺は尊重するけれども、お前も俺の考えている仁を尊重してくれ、というのが結論なんですね。(引用ここまで)

 いかがでしょうか。道徳というものは不偏・絶対のものでは決してないのです。これは仏教思想を少々かじれば分かることですが、物事全て「ある人にとって正しいことは、立場の違う人にとっては正しくない」ということになるのであり、時代が進み社会が変化すれば、それがより顕著になるのは必然です。
 次に、日韓中台どこもかも何らかの形で儒教道徳が大なり小なり存在するのですが、その歴史的発生を紹介しましょう。
黄(台湾) 中国の殷(前16世紀頃~前11世紀頃)の時代には、道徳というよりも宗教的なお告げみたいなこと、たとえば占いなどを大事にしました。周(前1050年頃~前256)の時代になって礼を強調するようになります。…時代を下ると、礼だけだは社会秩序がうまく保てなくなって、家族主義の時代でしたから、とくに家族をめぐる精神的な規律としての道徳が唱えはじめられていきます。そうして孔子が仁を強調し、孟子が義を強調するようになっていったのです。しかし戦国時代(前403~前221)になると、礼と徳でも不十分、もうどうにもならなくなって、ついに法が出てきたわけです。法の規制がないと社会秩序を保てないまでになったんですね。そこで出てきたのが、戦国末期の韓非(~前233頃)らの法家思想です。秦の始皇帝(前259~前210)が中国を統一すると、徹底した法家思想に基づく統一政策が実施され、儒教は害悪を垂れ流すだけだと、儒教の書物をみんな焼いてしまう「焚書坑儒」が行われます。次ぎに漢の時代になると、また儒教道徳を強調するようになります。以後、さまざまな変遷を経ながらも、2千数百年にわたって儒教が中国の支配的な思想となっていったわけです。それで近代になって、儒教的な道徳だけではどうにもならない時代となり、儒教批判がいろいろ展開されてきました。それで現在ではどうかというと、中国や台湾では、また韓国でも、今なお儒教的な道徳観や価値観から脱しきれているとはいえません。(引用ここまで)

 さて、この儒教道徳、江戸時代から戦前にかけて朱子学がけっこう力を発揮していましたから、日本にも存在するのですが、中国人や韓国人から見ると“ゆるく取り入れている”といったことになるようです。

黄(台湾) 私は台湾にいたときまでは、儒教道徳こそがすべての宗教を超える思想なんだ、地球上で最高の思想なんだと思っていました。それが、日本に来てから、儒教思想の偽善的で独善的な性格を発見したんですね。それならどうすればいいかとなって、哲学にはまったく興味がなかったんですが、だんだん興味を持つようになって…西洋哲学…歴史哲学…仏教哲学…を…勉強してきました。
…哲学から見た場合、道徳の次元は宗教の次元よりもやや下なんです。西洋でもそう見ています。それに対して、中国と韓国は儒教道徳を最も重要視したんですね。日本は重要視していません。…
…仁たれ、義たれと外から強制的に押し付けるのが儒教道徳です。私の体験でいえば、外的な強制は親からの圧力と社会の圧力でした。そうして生み出される社会道徳というのは、非常に偽善的で形式的なものです。外的な強制が強ければ強いほど、人間というのはやむを得ず偽善者になっていく。中華思想の教育を受けた人間ならば、独善的に考えるようになってしまうでしょう。つまり、外的強制をすればするほど、人間の良心が奪われてしまうんですよ。儒教道徳の強制は、日本の国学者もいっているように、人間本来の良心を奪ってしまうんです。…
…儒教道徳がカバーし得る範囲は結局のところ家族だということです。ですから、これを社会に適用させようとなると、逆効果になってくることがあるわけです。そういう限界があるもので、老荘思想や墨子(前480頃~前390頃)が儒教を批判したことはあったんですが、漢の時代以降は批判しないことが基本になって、道徳が独走していったわけです。…
…マックス・ウェーバー(1864~1920)の孔子批判…ウェーバーは孔子の説く道徳は村落共同体的な狭いもの、あるいは家族的な範囲に限った道徳であって、人類共通の普遍的な価値がないといったんですね。それはその通りだと思うんです。

呉(韓国) 韓国で受けた道徳教育では、人間はこうあるべきだ、こう生きるべきだ、目上の人にはこう向き合うべきだ、両親にはこう向き合うべきだといったことが説かれます。そうして、何が正しいことで、何が正しくないことか、何が善で何が悪かをはっきり分けて教えるんです。道徳教育というよりも、原理主義的な価値観教育といったほうがいいかもしれません。…その価値の基準となっているのが、韓国の儒教、つまり韓国的な朱子学なんです…。それは普遍的なもので、世界のどこでも通用するものだとばかり思っていました。ところが日本に来てみますと、…価値観となると善と悪が正反対になったりするんです。何が正しいことかについても、違うところがずいぶんあります。これは、とてつもないショックでした。
たとえば、ある日本のプロ野球選手が、父親が亡くなった直後にもかかわらず、悲しさをこらえてゲームに出場したということで、多くの人たちが盛んに励ましの応援を送ったと聞いて、とうてい信じられない思いでした。…(喪に服さず)ゲームに出るなんて、とんでもない親不孝だとなるわけです。…韓国では最も高い道徳価値が「孝」ですからね。…
日本では、他人に迷惑をかけないということが、とても大事なこととされますね。…韓国ではある程度他人に負担をかけること、お世話になる関係がいいと考えます。そうすることによって、より親密な関係が作られるというのが通念です。ところが日本では、迷惑はもちろん、負担をかけてもよくないというのが通念ですね。
韓国では、道徳とは礼にほかなりません。この礼というのは、形として表わす儀礼のことです。社会の秩序や人間関係を保つための、作法であり、制度であり、儀式であると考えればいいと思います。日本ではどうでしょうか。もちろん、日本人も礼にはうるさいですね。しかし多くの日本人は、道徳の本体は内面から自分を律するところにある、というふうに考えていると思います。それを表に出したのが礼だとなるのでしょう。ですから「表裏不同」は人間として恥ずべきことだとなってきますね。韓国の場合は、そこが大きく違ってくることになります。…韓国人には「人に対して表ではへつらい、裏では悪しざまにいう態度」が特徴的に見られるということなんです。簡単にいえば、韓国の道徳は罰則のない法制度だと思えばいいんです。…道徳違反には罰則はありませんが、社会的に強く非難されますから、表だけはなんとしても道徳的にふるまおうとする、そういう偽善が起きやすいんです。

石(中国) 道徳教育の根本はやはり宗教的心情だと思います。神様を畏れているから道徳を守るんですね。中国の宗教性といえばだいたいは道教でしょう。しかし、道教の道徳に関する仁義というのは、結局のところ欲望のためのものなんですね。…現世利益主義なのであって、道徳の根拠となるものがないんです。そこが中国の儒教文化のダメなところです。…
…キリスト教文化圏では、近代に入るとニーチェのように「神は死んだ」といういい方が出てくるわけです。この言葉の意味は、神という道徳の規準を失うと、みんな無茶苦茶なことをやるようになる、ということですね。…
…中国の文革時代は、ある意味では偽善的な道徳の時代だったともいえますね。革命の論理で作られた毛沢東の道徳ばかりが流布された時代です。たとえば、人をいじめてはいけないというのは、普通は誰もが守るべき当然の道徳です。ところが文革時代では、相手が革命の敵となったら、死ぬまで殴り続けるのが美徳とされました。しかも、…貧乏な社会にいる国民には質素な生活を強いる一方で、毛沢東たちはとんでもなく贅沢な生活をしていたわけです。まことに貧困な社会主義なんですね。毛沢東は国民に滅私奉公をいいながら、毛沢東自身は滅私の正反対のエゴの塊ですよ。その反動で鄧小平の時代になると、いきなり欲望の時代に走るんです。それで、…欲望最大、道徳最低の社会になり下がってしまいました。(引用ここまで)

 御3方とも儒教道徳をボロクソにけなしておられますが、小生も同様な思いです。呉さん(韓国)が「キリスト教文化もそうだと思いますが、中国でも韓国でも、人間というものは放っておくと何をするかわからない存在だと考えます。そこで、ある種の宗教性に基づいて人為的な社会規律として道徳を作っていくことが必要となります。」とおっしゃっておられ、黄さん(台湾)の「儒教道徳というのは一種の…宗族道徳」や呉さん(韓国)の「これまでの韓国の伝統社会では、家族とか親戚とか、血縁関係という場所が…唯一安心して戻れる所でした」との言からして、中国も韓国も一族郎党の係わり合いが強い社会ですから、為政者にとっては、その狭い社会を規律する儒教道徳をしっかり教宣しておけば、それでもって国全体を統治できるとの考えがあってのことでしょうね。

 さて、日本の道徳教育は、韓中台の御3方にはどんなふうに見えるでしょうか。彼らの目に映った日本の道徳文化の特殊性を幾つか紹介することにします。

石(中国) …神道にある「汚いことをしてはいけない、清らかな心でなければならない」という心持ち、これは素晴らしい宗教的な心情だと思います。…それこそが、本当の意味での道徳の原点ですよ。…
…日本の神道というのは、まさに美意識から成り立っているんですね。…それはまさに美学であって善悪ではないんです。そこが根本的なところです。道徳を超えるというのではなくて、道徳の基礎を作り上げること、それなんですよ、やらなくてはならないのは。
…神道の心に典型的な美意識、そういう土台のうえに、日本人は仏教や儒教を取り入れて、一つのあるべき人格のようなものを作り上げました。その人格的なものに表されているのが道徳だと私は思うんです。この道徳は、けっして『論語』のなかに書いてある「言葉」ではありません。「人格」なんです。
そうした人格の理想型はどこにあるかというと、…西郷隆盛…とか…。ああいう人たちの人格のなかには、神道も、仏教も、儒教も溶けこんでいます。そこが日本のすごいところです。根源がしっかりしていて、その上でいいものをどんどん取り入れているわけです。
黄(台湾) …神道は…非常に純だということです。実にピュアーな、アニミズムに近い純なる宗教性があります。…神道の核心にあるのは、「清き赤き心」といえばいいかと思います。清き心というのは、汚れのない、純粋な心ですね。赤き心というのは、あるがままの心、うそいつわりのない心、真心ということですね。…しかし、残念ながら「清き赤き心」だけでは社会生活はやっていけません。やれるとしても、日本でしかやっていけません。外国では通用しない、そこが少々物足りなく感じるところです。
呉(韓国) …日本では…清らかで嘘いつわりのない心というのは、道徳的に正しい心というよりも、美しい心として感じ取られています。何が善で何が悪か、何が正義で何が不正義かという道徳の考え以前に、日本には何が美しい心や行動で、何が醜い心や行動かという、美意識を規準にした価値観があります。これは、儒教文化、キリスト教文化、イスラム教文化に見られる、厳しい戒律や規律とはまるで違うものです。…
…私は大学の学生たちに、「あなたは悪い人間だといわれるのと、みっともない人間だといわれるのと、どちらが辛いですか」とよく聞くんです。日本人学生は、たいがい「みっともない人間だ」といわれるほうが嫌だといいます。それに対して、中国や韓国や他のアジア諸国からの留学生は、みんながみんな、「悪い人間だといわれたくない」というんですね。見事なほど、はっきり答が違ってくるんです。
また、他の先生と話をしていて気がついたことですが、中国・韓国の留学生は試験のときにカンニングをよくするんですね。…実際、韓国ではカンニングしないのは馬鹿だとすらいわれますしね。…その先生は「日本人はだいたい、カンニングは悪いというよりも、みっともないことだと考えてやらないんですよ」といっていました。
「みっともない」というのは「見苦しい」ということ、そこでは「見るに耐えない醜い自分の姿」がイメージされているんですね。中国人や韓国人ならば「悪いことだ」とか「正しくないことだ」とかなるでしょう。そこにあるのは自分の姿のイメージではなくて、社会的な道徳に照らしてどういうことかという理性に基づいた判断なわけです。…
…バスの乗り場の列にしても、日本に来て間もない中国の留学生などには、平気で割り込んで先に乗っていったりする者が少なくありません。しかし日本の若者でそういうことをする者はまずいません。なぜかといえば、そういう自分は「みっともない醜い自分」だからです。
若者でも子供でも、何かよくないことをしたときに、「そんなことをしたらあなた自身がみっともないでしょう」といえば、心の中では自然に醜い自分が自覚されますから、必ず効果が生まれます。悪いことだといえば、大人だってやってるじゃないかという逃げの手を防げません。ですから美意識に訴えればいいんです。(引用ここまで)

 ところで、日本人の美意識、美学に着いていけるのは、御3方のうち2名だけで、黄さん(台湾)には理解できないようです。そのあたりのやり取りを紹介しましょう。
黄(台湾) …私が中学のときには絵を描いていたのに高校生になって辞めてしまったのも、美に関してはなかなか理解ができないからなんです。…美の世界に入ると、私はまったく文盲みたいな、いや美盲ですかね、まるで理解ができなくなってしまうんです。…ですから、美が普遍性をもてるかどうかというのは、私にはちょっと疑問なんです。
呉(韓国) 黄さんのいわれる普遍性というのは、理性をどこまでも高めていった先の最高の概念みたいなものですよね。…でもね、それとはまったく逆方向の普遍性というのがあると思うんです。…
…かつて人類は共通に自然崇拝とか自然への畏怖の気持ちとかをもっていた時代があったわけです。…これを…自然との融和感とか一体感とか、自然の細部に入り込めるような実体感の現れとして、人類の精神の最も基盤のところ、最も深いところから人類を包み込む普遍性だともいえるわけです。…
…日本的な美は、…自然との融和感とか一体感とか、そちらの普遍性優位に発達し…こうした方向で洗練されていって、高度な発達を遂げた美というのは、おそらく日本にしかないでしょうね。…
黄(台湾) たしかに日本の美のなかには、繊細な表現が顕著ですね。たとえば小さなタンポポの花とか、我々から見ればまったく美の世界に入らないものがあります。…(茶道)あの世界は日本人独特の世界で、中華文明の美の世界とはまるで別の世界です。中国にも水墨画の世界があるわけですが、あれは死の世界なんですね。生きている世界ではないんです。とにかく自然が枯れていて、文明が没落していて、どうにもならないような世界が中国の水墨画なんですね。これが日本に入ると、また日本独特の美の世界になってくるということなんでしょうね。とても中国人には理解できない世界です。
石(中国) たしかにそういう面がありますね。同じお茶を飲むといっても、日本の茶道であれば美の儀式になる。切腹すれば、外国ならただの自殺ですが、日本では洗練された美意識にのっとった儀式になる。…そういうことは、中国人の理解を超えていますが、その理解を妨げているものがあるわけで、それを脱すれば理解できるんですね。
呉(韓国) 中国人や韓国人には、日本文化(その理解を妨げているもの)は自分たちの模倣だ、ローカル版だといった固定観念があるからかもしれませんね。…

 最後に、御3方から道徳について、日本のみならず中国、韓国さらには世界への提言を紹介しましょう。([注]提言の対象は世界のように感じましたが、少々読み取りにくく、日本に対する提言かもしれません。)
黄(台湾) 私の考えでは、道徳教育を復活するより、伝統文化を教育するほうが、道徳の面ではよりよい効果を生み出せると思います。
呉(韓国) 私もそう思います。…日本は本格的な道徳教育をしていない国の代表みたいなものですが…、その時代、その時代の人びとの生き方を知っていく教育をしていけば、そこには現在に至る日本的な道徳観の伝統のようなものが見いだせるはずで、そういうことを教えたいったほうがいいと思います。…
…日本では、…あるがまま、自然のままの心…そこから、仏教を受け入れ、孔子も孟子も受け入れ、老子も荘子も受け入れ、キリスト教も受け入れ、神道的な心情や自然主義的な調和思想のなかに、それらが説く道徳を次々に位置づけていきます。こうして社会が保たれていきます。…
…日本人の美意識をもって形成されてきた伝統文化を教えていくことが、一番かなっていると思います。私自身の体験からいっても、これは外国人にも十分通用すると思います。
石(中国) 私はこの神が死んだ(ニーチェの「神は死んだ」、神という道徳の規準の喪失)時代に、道徳あるいは道徳教育の根源を再建するのに、最も大きな可能性は日本的な伝統文化のなかにあると思います。…
これからの道徳教育には、神道の要素を取り入れる、戦前の教育勅語の要素も取り入れる、キリスト教の要素も取り入れる、本当の儒教は日本にあると思いますのでこれも取り入れる、というのがいいと思うんです。日本儒教は日本の伝統文化の一部になっていますでしょう。そういう意味で、伝統文化教育をすべきだと思うんです。(引用ここまで)

 いかがでしたでしょうか。
 日本人の道徳面での優秀さは、大災害時に略奪行為がなく、救援物資の受け取りは整然とした列でもって割り込みがないなど、世界中から驚嘆されています。
 その根源は、近隣3か国の方々のお話からすれば「美意識」にあるようです。言われてみれば、なるほどそうか、と初めて悟ったところです。
 この素晴らしい日本の道徳文化が世界中に広まっていくことを期待したいものです。
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プロフィール

昭和23年9月生まれの団塊世代人。    本名:三宅和豊              住所:岐阜県羽島郡岐南町三宅5-246  農家の長男として育ち、工業系の大学を卒業後、岐阜県庁に技術屋としてではなく事務屋として就職した変人。21年間県職員を勤めて、中途退職。父親が始めた薬屋稼業を平成6年に継いで今日に至る。平成12年頃から稼業の傍ら、母親の農業を手伝うなかで、百姓の魅力にとりつかれる。士農工商すべての身分を浅く広く何らかの形で経験していることが唯一のとりえである凡人。              著書は次のとおり。順次ブログアップ中。  随筆「ヤーコンの詩」(平成18年3月)   論文「食の進化論」(平成19年4月)   論文「新・学問のすすめ」(平成20年4月)論文「犬歯の退化」(平成22年9月)

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