RSS

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
コメント
1: by 天安 on 2015/08/02 at 12:01:23 (コメント編集)

スローリーディングで読ませてもらってます。
興味津々です。
それにしてもアインシュタインのことばなどを
どうやって集められたのか、研究に値しますね。^
すごいことだと思います。
真空にはなにもないとするアインシュタイン、
真空自体にただならぬエナジーがあるんだとする
最近の物理学やスピリチュアル。
アインシュタインが絶対でないことは、確かですが、
最先端のことがこの論文のあとのほうにありそうで
楽しみです。

▼このエントリーにコメントを残す

   

序章

序 章

 戦後60年余り経ち、産・学・官などあらゆる面において、今の日本に求められているのは、改革である。正しい方向への改革である。政治・経済両面では、激しい改革の嵐が吹き荒れており、道を誤らないでほしいと願っているが、学問の世界には、残念ながら、改革という言葉が辞書にないのである。その世界は、目を覆いたくなるほどに保守的である。従って、正しい学問の誕生の芽は、たちどころに摘まれてしまい、異説を頑固に主張すれば破門されるという、何ともおぞましい状態にあり、これが未来永劫続きかねないのが現状である。
 学問の世界が、これほどまでに保守的でなかった時代もあった。では、なぜそうなってしまったのか。それは、かつての政治・経済制度と同様に、「独裁・独占」あるいは「奴隷制」が改革を阻害しているのである。独裁政治や独占企業はもはや姿を消したし、人の奴隷制もない。しかし、学問の世界においては、正しいとされる理論は、時の経過とともにアンタッチャブルな真理として格上げされてしまう。すると、学者たちは、無意識的にその理論を絶対に正しいものと信じてしまい、知らないうちにその奴隷になってしまうのである。そして、その奴隷たちの親分が、学会の権威者として君臨し、独裁者となり、その理論をもとにして不動の学問体系を作り上げ、次々と新たな奴隷を産むという循環を作り出す。
 こうなると、もう誰も異論を挟めなくなってしまうし、奴隷は奴隷として安住の地を探すことに奔走し、その理論の補強作業の明け暮れ、揺るぎない独裁体制が完成するのである。
 ダーウィンの進化論が正にそうである。彼自身は、自説が絶対なものではなく、それと異なる説が幾つもあることを認めていた。しかし、その後に発見された突然変異、これは進化とは無関係のものと思われるのであるのだが、これで武装強化されるとともに、より分かりやすいようにスリム化されて今日に至り、真理として微動だにしない学問に格上げされてしまったのである。
 これに異論を挟む日本人の学者、東大医学部“講師”という、さげすまされた身分で定年退官を余儀なくされた西原克成氏は、その著書「生物は重力が進化させた」(講談社)の中で、怒りをもってこれを指摘されておられるが、西原氏の専門は口腔外科であるからして、進化に関する研究は専門外であり、また、東京医科歯科大学から東京大学大学院への編入学生という経歴であるがゆえに、「外様の歯医者が人様の研究に口を挟むとは何事ぞ。」と誹謗され、干され、誰からも相手にされないし、無視され続けるのである。
 また、シナリオ・ライターである英国人エレイン・モーガン女史は、「女の由来」(どうぶつ社)を皮切りにして、5冊の著書によって「人類水生進化説」を実に見事に論理的に説明しきっておられるが、草原進化説に立つダーウィン進化論学者たちは、「女だてらに生意気なことを言うど素人め。」とばかり、彼女を徹底的に叩きまくり、そして、その後は完全に無視している。モーガン女史がこの説を発表したときには、どれだけか話題になったようであるが、それから随分と年月が経ち、日本で発行されている最新の人類進化に関する解説本でも、これを無視したり、極めて評判の悪い説として少々紹介するに留めるなど、総じて批判的である。残念ながら、この説はやがて消えていく運命にあろう。
 ダーウィン進化論学者たちが主張する生物の進化というものは、「弱肉強食」の世界において「突然変異」と「自然淘汰」によって「適者生存」するという、絶対的な原則のもとにあり、これを破るような理論は一切認められないという微動だにしない“掟(おきて)”が存在しているのである。そして、上に紹介した2つは、あたかも中世キリスト教社会において“神の摂理”に反するとした宗教裁判さながらに退けられ、葬り去られてしまうのである。悲しいかな、これが生物進化に関する学界の現状である。
 本書で取り上げるアインシュタインの相対性理論、これは宇宙の原理を明らかにしたものとして信じられているが、これもしかりである。彼は、20世紀最大の科学者として著名であるがゆえに、数多くの名言を残しているが、その1つに次のものがある。
 「恐らくいかなる理論もいつかは大自然によって拒否されるであろうし、多くの理論はそれが誕生後まもなく拒否されるであろう。客観的に見れば、人間がその情熱的努力によって真理からもぎ取り得るのは、実に無限小である。」
 つまり、アインシュタイン自身が、彼の理論とて真理ではないと言い放っているのである。もっとも逆のことも言っている。彼は、「一般相対性理論を間違いとするには、あまりにも美し過ぎる。」と言った。彼が作った当初の一般相対性理論は、美しい数式で表わされた。真理とは、そのように美しいものであるから、それは正しいとの思いがそこにはあったのであろう。
 しかし、その後、一般相対性理論も揺れ動き、アインシュタインは引力と正反対の「斥力」という架空の力を方程式に入れ込んでつじつま合わせをやったり、また、それを引っ込めたりした。そうなると美しさは消えてしまい、いかなる理論も真理からほど遠いという、彼の名言どおりになってしまうはずであるのだが、あに図らんや、歴史はそうさせなかった。
 それはなぜか。彼の名言を続けて2つ紹介しよう。「権威を軽蔑する私を罰するために、運命は私自身を権威者にしました。」と言い、「人間は賞賛されると堕落してしまう。」と言っている。
 これは何を意味するかと言えば、自分が打ち立てた理論は、自分自身では絶対なものではないと思っていたにもかかわらず、これは素晴らしい理論であると周りの者が絶対視するようになり、自分もそれを認めるようになってしまった、ということである。
 こうして、一般相対性理論が発表されてから間もなく100年が経とうとするのであるが、その間に、この理論は揺るぎない絶対の真理とされるに至ってしまったのである。
 しかし、いまだに宇宙の成り立ちは解けていない。一般相対性理論をもとにして、あらゆる学者がいくら頑張ってみても解けないのである。こうしたことから、アインシュタインが言うとおり、この理論は決して絶対なものではなく、真理の無限小の部分を明らかにしたに過ぎない可能性が極めて高いのである。
 小生は、本書の第1部でそれを明確にする。彼の理論はあまりにも高尚過ぎて、とても太刀打ちできるものではないが、それが、小生ごとき「ど素人の凡人」でも分かってしまったのである。分からない御仁は、無意識のうちにアインシュタインを神様と崇め立て、知らず知らず一般相対性理論の奴隷になってしまっている学者たちだけであると断言できる。もっとも、小生も最近まではアインシュタインの奴隷、学者ではないから、正確には奴隷見習いであった。でも、幸運なことに、小生を奴隷から開放してくれた人物がいた。

 彼はまだ生きている。彼は明治2年に暗殺されてしまったが、彼は学問の中にまだ生きている。横井小楠(しょうなん)、その人である。小楠は、熊本藩の下級武士で、明治維新の青写真を描いた男と言われる実学思想家である。彼は素晴らしい名言を残した。
 「高名な学者の書いた書物を読むことによって物事を会得しようとすることは、その学者の奴隷となるに過ぎぬ。その学者が学んだ方法を研究することが大切であり、学問の本質は、そうした中からこころにおいて道理を極め、日常に実現するための修行である。」
 従って、小楠は、講義中に塾生がメモを取ることを嫌い、メモを取っているのを見つけると、そのメモを取り上げて火中に投じたこともあったという。[参照:徳永洋著「横井小楠(新調新書)]
 小楠は、幕末の表舞台に立ったことがないので、ほとんど無名の人物であるが、坂本龍馬が師と敬い、勝海舟が恐れた“鬼才”である。明治政府樹立後は、木戸孝允、大久保利通らとともに政府の参与という要職に就き、政策立案などで最も重宝がられた人物でもある。龍馬は凄い男であることに間違いないが、参照であげた本を読むと、困ったら小楠の所にフラッと立ち寄り、知恵をもらって、さも自分で考えたように装った、実は頭が空っぽの人間であったようにも思えて面白い。歴史に興味がある方には必読の書である。
 同時代のものとして、福沢諭吉の著した「学問のすすめ」があまりにも有名であるが、これは一般国民に対してのものである。学問をリードする学者に対してのそれについては、諭吉は「疑の一点に在り」としているものの、それ以上の言及はなく、具体的な方法まで指し示したのは、ここに紹介した小楠の言葉以外にない。
 繰り返しになるが、小楠の言わんとするところは、次のようであると小生は理解した。
 学問に取り組むに当たっては、ますは学ぶということになるが、ここで重要なのは、高名な学者が著した学問の内容を理解することではなくて、その学者がその結論に達した、方法論を研究することであり、その学者の思考方法を研究することである。そうした中から、自分が持ち合わせていなかった新たな思考方法を体得し、もって自らが「思考改革」をなすことである。こうして得られた柔軟な思考力でもって真理を探し求め、新たな学問の構築に向かうのであるが、それは決して人の道を踏み外すものであってはならず、また、その成果を人々の役に立つようにせねばならない。
 このような小生の理解の中で、まずもって重要なことは、思考方法を研究することであると考える。

 本書が目的とするところは、これを踏まえての「思考の改革」であることから、その導入になればと思い、ここで、古くて新しい思考方法の1つを紹介することとしよう。
 我々が日常とっている思考方法で、最も代表的なものが「ロゴスの論理」であり、ついで「レンマの論理」である。
 ロゴスの論理、レンマの論理とは何か。これについては、鈴木秀夫氏がその著書「超越者と風土」(原書房)の中で、山内得立氏の説明を引用しておられるので、それを孫引きして紹介しよう。

 東西における論理の差として、西洋ではロゴスの論理で物を考える。ロゴスとは「語る」ことであり、肯定と否定の2つから成り立っており、A≠非Aであり、二者択一である。東洋の論理はレンマである。レンマとは「直感的につかむ」ことであり、肯定、否定、両者の否定、両者の肯定の4つから成り立っている。レンマにおいては、Aでもなく非Aでもなく、従ってAでもあり非Aでもある、ということを考える。Aも非Aとも、それ自身では存在しないが、同時に両者は存在すると考える。(引用ここまで)

 我々は、一般に全ての物事を「ロゴスの論理」で考える傾向にある。あるものが「A」であり、あるものが「非A」であれば、「A≠非A」と考え、肯定か否定かの二者択一の道を選ぶ。事物を分別し、事物は相(あい)対して存在するものである、という思い込みに縛られているのである。特に自然科学においては、これが顕著なものとなる。まずは分類し、事物の同質性を否定し異質性を明確にし、その事物を何かに特化させようとする。そして、それが証明できたら、それは新発見として評価されるのである。
 確かに、この「ロゴスの論理」は、今日の文明社会で生きていくために汎用される思考方法であり、当然にして必要であり、自然科学の世界においては、これが欠かせないのも事実である。
 しかし、この論理、つまり理屈だけでは、我々は生きていけないのも確かであり、「A=非A」であると無意識的に考えて行動することも多い。お気に入りのバッグであれば「ノンブランド品=ブランド品」と等価になり、惚れていれば「あばた=えくぼ」と見えてしまい、親友であれば「愚者=賢者」として対等に付き合いができる。これが「レンマの論理」の1つの形態であるが、いかなるコンピュータにも決して真似のできない技であり、人間は、これができるからこそ、楽しく、うれしく思い、美しいと感じ、そして、こころが豊かになって倫理観も湧いてくるというものである。
 自然科学においても、時として、この思考方法を取らねば道は開けない。特に新たな分野を切り開くときには、「ロゴスの論理」から脱却することによって、はじめて真理を垣間見ることができることが多いのであり、これは自然科学の歴史が証明している。
 小生は、先にダーウィンやアインシュタインが打ち立てた理論を批判的に紹介したが、彼らがそこにたどり着いた道筋、つまり思考方法は賞賛に値するものであり、それまで誰も考え付かなかったものである。ダーウィンは「ヒト≠サル」ではなく「ヒト=サル」と考えたし、アインシュタインは「物質≠エネルギー」ではなく「物質=エネルギー」と考えたからこそ、偉大な発見ができたのであり、生物進化や宇宙構造の解明に大きく貢献できたのである。
 こうしたことは、「発想の転換」とか「逆転の発想」とか、そういったたったの一言で、天才だからこそ成し得た業(わざ)だと簡単に済まされてしまうが、これは、先に例示した「レンマの論理」の一形態であり、誰しもが備えている思考方法なのである。

 アインシュタインを例にとって、こうした思考方法が生まれ出た背景を、彼が残した名言から見てみよう。
 まずは、学問の奴隷になってはならないという、小楠の教えに通ずるものが、先ほどの「権威を軽蔑する」という言葉であり、彼の幾つかの名言を並べ立てていくと、アインシュタイン版「学問のすすめ」なるものが、どれだけか浮かび上がってくる。
 「知恵とは、学校で習ったことを全て忘れた後に残っているものである。」と言い、そして、「知識は2つの形で存在する。1つは本の中に生命のない形で、もう1つは人の意識の中に生きている形で。後者こそがとにかく本質的なものである。前者は絶対に必要であるように見えるがたいしたことはない。」と言う。
 こうして、まずは自身をあらゆる学問の奴隷から解放し、学問に取り組むに当たっては、「何かを学ぶためには自分で体験する以上に良い方法はない。」と言い、「好奇心はそれ自体が存在理由をもっているのです。」と、遊びごころが何よりも重要なものであると位置付け、「想像の力は知識の力よりも重要である。知識は世界を制限し、想像は世界を包含する。」と言うのである。極め付けは、「自分は狂っている、そう思わなければチャンスはない。常識とは偏見の集積であり、私は理詰めで考えて新しいことを発見したことはない。」と言いきるのである。
 これが、アインシュタイン版「学問のすすめ」であるが、じゃあ具体的にどういう思考方法を取ったのかということになると、残念ながら、彼の口からは明確なものが何一つ発せられていない。
 なぜならば、偉大な発見も、それが完成した理論として書き表わされる段になると、それは正に“語る”ことであるから、全て「ロゴスの論理」で説明されてしまうからである。よって、どのようにして「ロゴスの論理から脱却」し、どのようにして他の論理、例えば「レンマの論理を働かせた」のかという説明がなされることはなく、また、それは言葉では容易には説明できないことでもあるので、こうした思考方法の存在は隠されてしまう。
 これは、偉大な発見をした者に大きな責任がある。その思考方法の説明に多大な困難が伴うものであったとしても、精一杯努力すべきである。また、その弟子たちが、その思考方法を何とか学び取って、それを説明しきろうと努力すべきである。
 しかし、残念ながら、こうしたことはほとんどなされていない。せっかくの貴重なノウハウが公開されないのである。これではあまりにも情けない。かかる状態のもとでは、新たな科学はそう易々とは生まれようがないではないか。是非ともこうした新たな思考方法を、その都度その都度、紹介していただきたいものである。
 そこで、小生は、アインシュタインの相対性理論と、彼が作った宇宙モデルについて、様々な角度からその思考方法を探ってみた。不完全ではあるが、どれだけかは核心に迫ることができたと思っている。それを本書第1部の中で詳しく紹介することとする。
 また、彼が途中で投げ出した宇宙モデルを、小生が偶然にも完成させることができたのであるが、そのときに働いた思考方法を併せて記した。これを完璧に説明しきることは、先にも言ったとおり、言葉では表現し得ない部分が相当にあるので、どうしても不十分さは残るものの、皆さんにおおむね理解していただける程度には説明ができたのではないかと思っている。

 しばし宇宙物理学の世界に首を突っ込んでみて、身をもって「思考改革」の重要性を痛感した次第である。そこで、本書において、いかにして「ロゴスの論理」からの脱却を図り、そして、我々誰しもが備えている「眠れる論理」をどうやって目覚めさせるかについて、その端緒を切り開かんと、大いなる挑戦を試みた。
 もっとも、これには先人がいて、「対称性人類学」(講談社メチエ)を著した中沢新一氏がそうであり、何度もその著書の抜粋や要約を使わせていただき、本書はその焼き直しの感を拭えないが、まったく異なる観点からの接近も幾つか試みた。
 なお、こうした「思考改革」の必要性は、自然科学の分野に留まらず、人文科学にも当てはまり、また、我々が生きていく上で日常的に考えることの全てに共通することでもある。
 従って、どなたにも読んでいただけるように、努めて平易な内容にしようと試みたが、言葉というものは「ロゴス(語る)の論理」で作られており、一方、人間特有の無意識のもとでの思考方法は、「レンマ(直感的につかむ)の論理」のように理詰めで考えるものではないので、言葉では説明しにくいものがあり、どうしてもまわりくどく、かつ、難解なものになってしまう。
 特に、今日の高度文明社会にあっては、スーパーコンピュータがそこら中で重用され、「オン・オフ」のたった2つだけを用いて行う「2項操作」による「2項論理」、これも「ロゴスの論理」の1形態であるが、これだけで正確な答を出してくれ、これぞ万能であり、それが全てだと思ってしまうような世の中になっている。従って、「レンマの論理」などを働かせる場がなくなり、皆がそのような思考をほとんどしなくなってしまった。

 こうしたことから、本書には「レンマの論理」や、のちほど紹介する、聞き慣れない「対称性の論理」なるものが、そこら中で登場し、難解過ぎて同じ所を繰り返し読み込まないと理解できない部分が多々あり、何を言っているのかさっぱり分からないものになってしまう恐れがある。小生が中沢新一氏の著書「対称性人類学」を読んだときがそうであった。その経験を踏まえて、中沢氏からの引用部分については、小生なりに解説を加えることにした。それでも、第1部は宇宙物理学という専門的内容を扱っており、興味がない方が多いであろうから、容易には理解していただけそうにない。
 そこで、本書は2部構成にした。第1部に興味がない方は、これを飛ばし、第2部の文化論から読み進めていただければよい。
 その場合においても、あなたの思考改革を助けるために、浦島太郎をはじめとする「むかしむかし…」で始まる民話や伝説に親しんでいただきたいし、それを思い起こしていただきたい。
 それらの物語には、非現実的な世界がお構いなしに登場する。でも、それは間違いであり理屈に合わないからといって、子供に読み聞かせてはならないなどとは、誰も思わない。そのお話は「ロゴスの論理」を否定した組み立てになっているからこそ、感動を生み出し、こころを豊かにしてくれるからである。我々日本人は、まだ、これを無意識的によく知っているのである。
 こうした通常使わない思考方法を働かせる訓練を積み重ねることによって、「レンマの論理」や「対称性の論理」による思考方法が育まれ、発想が豊かになり、それが倫理観を生むもとにもなり、また、科学を正しい方向へと導いてくれるのでもある。
 非現実的と思われるものであっても、例えば、竜宮城へ行ってきた浦島太郎がとんでもないお爺さんになってしまったという現象は、アインシュタインの特殊相対性理論によって、「浦島効果」として実在する現象であることが証明されたように、常識から外れるからといって何もかもを安易に切り捨ててしまってはならないのである。案外こうしたところに真理が眠っている。
 自由奔放な発想のもとに生み出された民話や伝説を思い出したりして、思考訓練をしながら本書を読み進めていただければ、誰でもアインシュタインのような新発見ができる可能性が開けてくるでしょうし、少なくとも「こころ豊かで楽しくなる思考方法」が必ずや湧き出してくることでしょう。
 第1部、第2部ともに長文の論文になってしまい、お読みいただくのに随分とお時間を取らせて恐縮に存じますが、是非、最後までお付き合いくださいますよう、よろしくお願いします。
スポンサーサイト
コメント
1: by 天安 on 2015/08/02 at 12:01:23 (コメント編集)

スローリーディングで読ませてもらってます。
興味津々です。
それにしてもアインシュタインのことばなどを
どうやって集められたのか、研究に値しますね。^
すごいことだと思います。
真空にはなにもないとするアインシュタイン、
真空自体にただならぬエナジーがあるんだとする
最近の物理学やスピリチュアル。
アインシュタインが絶対でないことは、確かですが、
最先端のことがこの論文のあとのほうにありそうで
楽しみです。

▼このエントリーにコメントを残す

   

プロフィール

昭和23年9月生まれの団塊世代人。    本名:三宅和豊              住所:岐阜県羽島郡岐南町三宅5-246  農家の長男として育ち、工業系の大学を卒業後、岐阜県庁に技術屋としてではなく事務屋として就職した変人。21年間県職員を勤めて、中途退職。父親が始めた薬屋稼業を平成6年に継いで今日に至る。平成12年頃から稼業の傍ら、母親の農業を手伝うなかで、百姓の魅力にとりつかれる。士農工商すべての身分を浅く広く何らかの形で経験していることが唯一のとりえである凡人。              著書は次のとおり。順次ブログアップ中。  随筆「ヤーコンの詩」(平成18年3月)   論文「食の進化論」(平成19年4月)   論文「新・学問のすすめ」(平成20年4月)論文「犬歯の退化」(平成22年9月)

永築當果

Author:永築當果
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

カテゴリ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。