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まえがき&あとがき

 私は、本を購入したら最初に「あとがき」に目を通すことにしています。そこには著者の正直な思いや読者へのお願いが書かれていることが多く、本を読み進める上でとても参考になるからです。その「あとがき」の形態は千差万別で、中には別の方の添え書きがあったりして大変興味深いものがあります。また、文庫本の場合、特に注意が必要なのですが、後で初版本の内容に誤りがあることが分かったり、新事実が発見されたりして補追する必要が生じても、通常は訂正されることはなく、「あとがき」ではじめてそれらが書き記されることが多いのです。なお、新書本であっても、脱稿後においては、印刷の都合で同様なことが起きることがあります。こうしたことからも「あとがき」を最初に読む必要があるのです。
 そして、皆様にも、私がするのと同様に、「あとがき」から先に読んでいただいたほうがよいのではないかと思い、通常の縦書きの本で最初に現われるページに「あとがき」を配置しました。今、あなたが読み進めておられるこの部分が「あとがき」の「まえがき」になっております。少々悪ふざけをして申しわけありませんが、どうかこのまま読み進めてください。

 さて、私が今までに買い求めた本は全てが縦書きです。やたらと数式が出てくる数学や物理学の教養書でさえ、工夫をこらして縦書きを通しています。そうしたことから、本は縦書き、これは常識です。目にする新聞も雑誌も例外なく縦書きですから、その思い込みは根強いものがあります。
 でも、たった1冊、私の手元に横書きの本があります。これは、インターネット注文で間違えて買ってしまった、小学生向け動物学の写真入り読本です。届いた宅配便を開けてみてビックリ! ありゃ失敗、一人苦笑い。これからはもう少しよく調べてから買わなくてはと反省しました。せっかく買ったのだからとその本を開いたら、「あっ、この本、横書きだ。小学校の理科の教科書も横書きだから、この種のものは横書きなんだ。」と、少しびっくりしたり、何か懐かしい感情が湧くと同時に、当然にして横書きが常識なんだと思ったりしました。
 縦書きの常識と横書きの常識という、相(あい)反する2つの常識が混在すれども、何ら疑問を持たず、こうした文字文化に慣れきっている、私、そして今日の日本人です。
 そして、近年、新たな常識も生まれました。インターネットや携帯電話の情報は、全て横書きです。画面が上下にスクロールしていくから縦書きでは読み取り不能となり、横書きするしかありません。私がこうして文字を打ち込んでいるワープロも同様になっていますから、一度横書きした後でプリントアウトするときに縦横変換するしかありませんが、これも常識です。

 時代が進むにつれて、目にする文字は、横書きが多くなる傾向にあります。老眼の私には助かります。仕事の都合上、細かい文字を読み取らねばならないことがあり、遠近両用眼鏡が放せません。最近これを新調しました。これがいけなかったです。遠視部分が狭くて、本を読もうとすると首を縦に振らねばなりません。横書きであれば眼を左右に動かすだけで済みます。このほうが楽です。
 メモを取るのも横書きになって久しいです。それも左から右へです。アラビア数字をメモするのに都合がよいですし、そして、戦後に英語表記と合わせることにしたからでしょう。今日の我々は、皆がそれに馴染んでしまい、これも常識です。でも、もし江戸時代の人がタイムスリップして今日の日本に現われたとしたら、びっくりするのはメモの取り方でしょう。彼らは、縦書きを原則とし、横に書くとしても右から左であったのですから、きっとパニックを起こします。
 このように、時代の流れの中で、文字文化が大きく変わってきたのですが、慣れるのが早くて、無意識的に何もかも常識だと思い込んでしまっています。

 今回、私が著したこの書は、今お読みいただいている部分だけが縦書きで、あとは全て型破りの横書きです。また、ここは「ます体」にしておりますが、他はほとんど全てが「である体」です。
 本書が目的とするところは「思考の改革」でして、それは、常識は非常識、非常識は常識と思考せねばならないことでもありますから、敢えてそうしたのです。書体、文体を複合的に登場させることによって、まずは皆様の脳の準備体操に少しでもお役に立てればと思い、敢えて変則的なスタイルを取ることにした次第です。そして、皆様に少しでも新鮮さが伝わればと思います。
 人を小馬鹿にしたようで申しわけありませんが、「思考の改革」というものは、ある面で遊びごころを根っこにしていると思われますので、私の横着をお許しください。(最近、大人向けの本で横書きのものが発売されたとのこと。えっ、ほんと?先取りされちゃったな。)
 どうでもいいような長々とした「まえがき」は、このくらいにしまして、これより、本来の「あとがき」に入らせていただきます。


あとがき

 私は子供の頃、理科が好きでした。高校に入ると、特に地学と物理に興味を持ちました。そこには、一貫して地球と宇宙という、とてつもなく広大な、強く惹かれるものがあったからです。趣味として中学・高校と天体観測をやりました。学校にそうしたクラブがなかったし、そうした友達もいませんでしたから、月刊の天文雑誌を毎号購入して、それを読み、一人で楽しんでいました。
 その趣味も、その興味もいつしか忘れてしまいました。大学受験が迫り、心に余裕がなくなってきたからです。また、あこがれていた大学に入学したものの、化学という、逆に極小空間の世界を扱う学科に何となく籍を置いてしまい、しかも在学中にやったことは学生運動ぐらいで、あとは遊び呆けました。学んだ学問といったら、畑違いですが、興味を引かれた経済学を独学で少々かじったぐらいで、ほとんど授業を受けなくても、どさくさで卒業できてしまうという良き時代でした。
 就職は、岐阜県庁の事務屋としてであり、同期生は法学部など文系の大学を出た連中ばかりでした。自分に求められたものは法学の知識であり、就職後に、あわてて泥縄で行政法を独学しました。

 記憶は定かでありませんが、仕事に少し慣れた頃に、ある本屋に立ち寄ったところ、ふっと宇宙物理学の教養書が目にとまり、それを買ってしまいました。忘れていた自分の趣味の世界が約10年振りによみがえったのです。宇宙は、せせこましい現実社会から逃避させてくれる夢のような世界ですから、よき清涼剤になったことを記憶しています。本書の第1部で登場させるアインシュタインの相対性理論や宇宙モデルも、そのときに知りました。しかし、仕事が忙しくなり、その趣味も再び頭から離れていきました。
 岐阜県庁では、技術出身の事務屋として重宝がられたのか、異動の度に技術がらみの仕事を幾つも経験させてもらい、お陰で広範囲の自然科学に触れることができました。それらも、そのときそのときに必要に迫られての泥縄式の独学でした。
 21年間の県職員生活の後、家庭の事情で45歳で中途退職し、親父の跡を引き継いで薬屋稼業に入りました。ここで、世の中には詮索好きな方がみえて、「ちょっと待て。引き算すると帳尻が2年合わない。浪人したのか、留年したのか。」と横道に入られますが、後者のほうで2年遅れました。

 薬屋は、ずぶの素人で無資格無免許の私ですから、ここでも必要に迫られて、医学、薬学、栄養学などを独学で勉強するしかありませんでした。アインシュタインもそうでしたが、私もこのように、何もかも独学で勉強する習慣が身についてしまいました。それは、自然科学だけでなく人文化学の分野にも及び、しかもバラエティーに富んでいます。
 ところで、独学をしていると困ることが出てきます。それは、分からない所や疑問に思った点について質問しようがないことです。それを解消しようとして、別の本を買ったりして勉強するのですが、残念ながら、うまくいったことは数少ないです。
 そうなると、ぼやきが出るし、筆者に文句を言いたくなります。それでも、その虫食い部分を何とかして埋め込むしかなく、ない知恵を絞って「自分で考える」習慣が身につきました。もっとも、これによって解明できたことは少なく、誠に効率の悪い勉強法でしたが、「記憶するより考える」ことが自然にできるようになりました。
 そして、真理を探訪するに当たって最も注意しなければならないこと、これは序章で詳しく述べますが「権威ある学者の奴隷」にならずに済むことができました。偉い先生の講義を受けて、その場で質問したりすることができなかったので、そうならずに済んだのです。今思うに、しみじみと、奴隷にされなくてよかったなあ、と自分の運の強さに感謝しています。

 薬屋稼業に少し慣れた頃、すでに我が業界は店の個性を出さないとやっていけない時代になっており、遅がけながら、「食」を全面に打ち出し、専門店化しようと考えました。
 そこで、手が空いた時間に食に関する本を読み、またまた独学しました。併せて、畑での野菜づくりも研究範囲に入り、農学も実践を中心に覚えました。食を追及し出すと、現在のヒトの食だけでは狭すぎて不十分であると思うようになり、研究範囲も自ずと広がってしまいます。
 類人猿の食が参考になるから、まず動物生態学を勉強しました。そして、サルからヒトへどのように進化したかが分かれば、ヒト本来の食がどのようなものであったのかも分かるはずで、進化論の文献を調べ始めました。ところが、サルからヒトへの進化の記述が、私には何とも奇妙に感じられ、特に食については納得がいかないことが余りにも多過ぎ、どこか間違っているのではないかと思うようになりました。
 そこで、昔から疑問に思っていた「なぜにヒトは裸のサルになったのか」について、インターネットで検索し、序章で述べるエレイン・モーガン女史の人類水生進化説があることを知りました。早速ネットで彼女の著書を買い集め、読み進めたところ、一部でおかしな記述もありましたが、ほとんどについて合点がいき、これぞ真理であると納得した次第です。

 しかし、私が求める食についての記述は旧態依然としたままでした。そこで、文化人類学などの分野まで範囲を広げて文献を調べたりしましたが、まともに食を取り上げたものが全くないのです。考えてみれば至極当然です。そのような証拠が化石のようになって残っているわけがないからです。古代文明が誕生した頃の食についても、ほとんど遺跡らしいものがなく、断片的にしか分かりません。加えて、毎日普通に食べている食事の内容は皆が知っている常識ですから、文字が発明された以降においても、敢えて記録に残す必要はないので、古文書には一切登場しません。
 そして、考古学や文化人類学などの悪いところは、実証主義が採られていることで、かたくなにそこからはみ出そうとはせず、推理して仮説を立てることはまれです。同じ自然科学でも、宇宙物理学や量子物理学の分野では、仮説だらけの推理主義が中心になっています。学界によってどうして、こんなにも差が出るのか私にはよく分かりませんが、仮説を真剣に検討して、はじめて新たな発見が生まれ出てくるはずです。でも、考古学者などは、そうしようとしない。
 こうなると、もう「これは未知の分野なんだ。自分で考えるしかない。自分で見つけ出すしかない。」となります。「記憶するより考える」しかありません。還暦に近づき、既に蜘蛛の巣が張って久しい私の固い脳ではありますが、数百万年前の猿人や原人になりきって、「この生活環境で何が食えるか」と、ひたすら思い巡らすしかありません。
 それを思考するのに役立ったのが、序章で紹介する「レンマの論理」であり、そして「対称性の論理」でした。それらを働かせることによって、ヒトの食の移り変わりがくっきりと見えてきて、それをまとめて、昨年「食の進化論」を発刊しました。発刊といっても、全て手づくりで100部を製本しただけのものではありますが、これで一区切りできました。

 そうなると、最近、物書きにはまってしまっている私ですから、次なる著作に取り掛かりたくなります。そこで、「食の進化論」を執筆する中で発見したことに関連して、「(仮題)男と女の進化論」という論文づくりの準備を始めました。しかし、大きな壁にぶち当たりました。それは無理もないことです。自分は男であるから男ごころは分かるものの、女でないから女ごころは分からないからです。何冊か本を買って読んでも、立ちはだかった壁は余りにも高く分厚く、とうてい乗り越えることは不可能です。従って、これは一時中断を余儀なくされました。
 しかし、店は閑古鳥が鳴いて、暇で暇でしかたありません。何か物書きをしたいという欲求は、衰えを見せず、高まるばかりです。
 そんなとき、何気なくテレビを見ていたら、またまた宇宙の誕生をやっているではありませんか。30年も前に本を読みましたが、それから新たな発見でもあって、宇宙観もかなり進んでいるのでないかと期待しました。ひとつ暇潰しにそうした本でも読んでみようと、ネットで取り寄せて読んでみましたが、宇宙論は一向に進展している様子はありません。いや、それどころか学者は皆、泥沼に入り込んで、とんでもないことばかり言っているように受けとめられました。
 「よし、ここは、自分で宇宙の謎解きをやってやろう。」と、「レンマの論理」と「対称性の論理」を働かせることにしたのです。そしたら、あっけなく解けてしまって、拍子抜けしたのが本当のところです。なお、それは、アインシュタインがその直観力で思いついた宇宙モデルが正しかったことが分かったに過ぎませんから、極めて些細な発見です。そんなわけで、この謎解きを威張って発表しようなどという気はさらさら湧いてきませんでした。

 でも、「レンマの論理」と「対称性の論理」を働かせることの重大さを痛感しました。この思考方法により、食論に続いて宇宙論でも新発見があったのですから、なおさらです。そして、この思考方法を、皆に知ってもらいたいという気分が日増しに高まってきました。
 そうしたことから、今回の発刊に至ったわけですが、いきなり自費出版し、世に問うというのも何だか出しゃばり過ぎてみっともないです。ここは、前回と同様、我が人生でお世話になった方々にお目通しいただくだけでよいではないかと考えました。
 そんなわけで、再び手づくり出版した次第です。前回の「食の進化論」は、膨大なページ数になってしまい、読むのに骨が折れるとの苦言を何人かの方々からいただいていますので、今回は半分のページ数にとどめようとして取り組みましたが、ワープロを打ち終えたら何と前回と同じボリュームに。これではいかんと、その後、自分では随分と削除したつもりですが、内容が難しいだけに削り過ぎると意味不明となってしまう恐れが出ますので、どれだけも減らせません。
 そこで、苦肉の策を取って、2部構成にしてみましたが、読みやすいほうの第2部だけをお読みいただいただけでご理解していただけるであろうか。一抹の不安があり、脱稿後にお2人の方にご意見を求めましたところ、何箇所か書き直すべきとのご指摘をいただき、手直しをして印刷することにしました。それでも、第2部だけをとってみても、何箇所にもわたり難解な部分やくど過ぎるところが残りましたが、いかんともし難く、そこは何とぞお許しいただきたいです。

 最後にお願いがあります。貴兄、貴姉がお読みになった後で、でき得ればご子息にお読みいただくよう、お働きかけいただければ幸いです。還暦を迎えた私でも新発見が可能なのですから、頭の柔らかい若い方々に、こうした思考改革をしていただければ、誰でもが皆、第1部で紹介するアインシュタインのような大発見が、いとも簡単に幾つもなし得るからです。それを、これからの「人間科学」に役立つ方向に活用していただければ、この上ないしあわせです。

   平成20年4月
                               永築 當果
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プロフィール

昭和23年9月生まれの団塊世代人。    本名:三宅和豊              住所:岐阜県羽島郡岐南町三宅5-246  農家の長男として育ち、工業系の大学を卒業後、岐阜県庁に技術屋としてではなく事務屋として就職した変人。21年間県職員を勤めて、中途退職。父親が始めた薬屋稼業を平成6年に継いで今日に至る。平成12年頃から稼業の傍ら、母親の農業を手伝うなかで、百姓の魅力にとりつかれる。士農工商すべての身分を浅く広く何らかの形で経験していることが唯一のとりえである凡人。              著書は次のとおり。順次ブログアップ中。  随筆「ヤーコンの詩」(平成18年3月)   論文「食の進化論」(平成19年4月)   論文「新・学問のすすめ」(平成20年4月)論文「犬歯の退化」(平成22年9月)

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