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第1章 アインシュタインの新・理論

第1部 アインシュタインの宇宙

第1章 アインシュタインの新・理論

1 ロゴスの論理とレンマの論理
 アルバート・アインシュタインは、ドイツ生まれのユダヤ人で、スイスのチューリッヒ工科大学を卒業したものの、まともに授業を受けていなかったから教授にも嫌われ、望んでいた教職者としての働き口を斡旋してもらえなかった。そこで、しばらくアルバイトをしながら就職浪人したのであるが、家族を養うためには定職に就かざるを得ず、スイス特許局の審査官に就職した。
 役所では仕事のノルマを午前中に済ませて、午後は物理や数学の本を読みふけっていたようだ。こうしたサボリの中で1905年、若干26歳のときに、次々と4つの偉大な論文を発表した。
 最初に「光量子論」を発表した。当時は、「光」は「波」と考えられていた。しかし、アインシュタインは、「光」は「粒」であるとして「光電効果」を見事に説明しきったのである。そして、「光」に関しては、「波≠粒」ではなく、「波=粒」が成り立つとした。
 西欧においては、「A≠非A」という「ロゴスの論理」しかなかった時代に、彼は、「A=非A」という「レンマの論理」を働かせて真理を発見したのである。誰も考えつかなかった新・論理の登場であり、当時の科学者のど肝を抜いたことであろう。
 アインシュタインは、のちにノーベル賞を受賞したが、選定理由は相対性理論ではなくて「光量子論など」となっており、この論理が高く評価されたと考えてもよいであろう。
 もっとも、「光」についての今日の説明では、あるときは「波」として、あるときは「粒」として振る舞う、という言い方がなされることが多いから、現在でも学者のこころの奥底には、「A≠非A」という「ロゴスの論理」を貫徹したいという思いがあるようだ。
 なお、この「レンマの論理」は、インドで生まれ、古代インド哲学や仏教の考え方の基本となっており、中国の思想にも大きな影響を与えている。一方、一神教の文化に根差した西洋の思想は、「ロゴスの論理」で動いている世界である。そうした西欧社会の中で、よくぞアインシュタインは「レンマの論理」を働かせたものだと感心させられる。ここに、彼の頭の柔らかさと思考方法の豊かさを垣間見ることができよう。

2 偉大なる真理、特殊相対性理論
 この節からは、専門的な解説や数式をところどころで登場させるが、興味がなければ、そうした部分は理解するまでもなく流し読みし、思考方法に関する記述部分に注目していただくだけでよい。
 アインシュタインの2つ目と3つ目の論文の紹介は省略するが、4つ目が凄い。それは、のちに悲劇を生むもととなった「特殊相対性理論」である。なお、特殊とは、限定されたという意味で、等速直線運動または静止している場合に適用される理論である。
 光の速度は、どんな方法で測定しても一定の値となってしまい、ニュートン力学の速度の相対性が無視されてしまうという結果しか出なかった。しかし、当時の物理学者は、この謎解きを、絶対的な真理として固く信じられていたニュートン力学の範囲内で何とか解こう、と悪戦苦闘していたのである。
 だが、アインシュタインは、光の速度が「相対ではなく、絶対なもの」として、素直に受け入れようという態度を取った。彼は、序章で紹介した彼の名言のとおり、自らをニュートンの奴隷から解放したのである。そして、光の速度が絶対なものとして思考実験を繰り返した。つまり、実験道具を使わずに頭の中であれこれ思い巡らし、思い描いた結果を頭の中で整理した後に図示する、という方法を取り、誰にでも分かるように説明したのである。
 その結果の第1が「同時刻の相対性」である。ある人にとって同時刻に起こった事象が別の人にはその現象が違った時刻に起きる、というものである。時間は絶対なものではなく、相対なものであることを証明したのである。そして、時間の遅れは速度と相関関係にあることを数式で示した。それを分かりやすく文字を使って示すと、次のとおりである。
  宇宙1
 時間は絶対なものではないことを直ちに受け入れることは、一般の科学者にとっては不可能である。アインシュタイン以外の誰か別の科学者が、たとえ光の速度が絶対なものとして思考実験して、時間の遅れが生ずるとの結論に至ったとしても、これは思考実験の中のどこかに間違いがあるのではないかと思い、幾ら考えても間違いが見つからなければ、前提とした光の速度の絶対が間違っている、と考えるしかない。なんせ、時間というものは、絶対にして絶対と信じ込まれていた時代であったのだから。
 アインシュタインの脳の中で、どんな論理が働いたのであろうか。それは「対称性の論理」である。
 「対称性の論理」とは何か。中沢新一氏が、その著書「対称性人類学」の中で、全編にわたって述べておられるが、小生が何度も読み返す中で、ようやく理解できるところまで漕ぎつけたものの、まだ一部未消化である。
 小生が分かった範囲内で説明するとなると、「対称性の論理」とは、取り敢えずは、民話や神話に盛んに登場してくる、空想の世界の論理と考えていただいてよい。なお、この論理は、民話よりも神話に頻繁に出てくるから、中沢氏は、これを「神話の論理」とも言っておられ、以後、神話には民話を含めることとする。

 神話の世界では、「A=非A」など「レンマの論理」は当たり前のことであり、また、「過去=未来」になったり、「部分=全体」になるなど、現実では有り得ないことが堂々とまかり通るのはご存知のとおりである。そして、不思議なことに、その中に大自然の真理というものが顔を覗かすことがあるのである。
 「時間の相対性」についての神話が日本にある。浦島太郎の物語がそうである。昔の人は素直に浦島太郎の話に聞き入り、そういうこともあり得ると考えたのである。今どきの子供は幼いときから「ロゴスの論理」に振り回され、浦島太郎の話はウソだと早々に見抜くのだが、それは「ロゴスの論理」しか働かない世界でのウソ・ホントであって、真理とは別物である。
 アインシュタインは「神話の論理」を無意識的に使ったのであろうが、「時間は進み過ぎることはないが、遅れることがある。」という結論に達したのであり、浦島太郎の話の前半は、特殊相対性理論の「時間の相対性」から、これが正しいことを立証したのである。これは「浦島効果」と呼ばれ、ちゃんとした物理学用語になっている。
 小生にはまだ孫がいないが、孫ができたら浦島太郎の話を何度も読み聞かせ、これはホントのことなんだよと特殊相対性理論の教育から始めたいと待ち焦がれている。しかし、これはいつ実現することやら……。
 それにしても、アインシュタインの頭は柔らかい。いい歳こいた爺さんになっても、あのおなじみの写真、イラスト化して表紙に使ったが(掲載省略)ベロを出したふざけた格好の写真を撮らせるところをみると、彼はいつまでも幼児性を抱いていたのであろうか。当のご本人も、あの写真をことのほか気に入っていたとのことである。
 中沢氏は、先に紹介した著書の中で、「対称性の思考」をはじめとする現生人類の高次元な「流動的知性」は、赤ちゃんが未熟な状態で生まれ、十分に長い幼児の期間があるからこそ養われたのではないかと言っておられる。つまり、それらは「幼児の思考であり、幼児の知性である」可能性が高いのである。
 それが、子供から大人になるにつれて、現実世界の「ロゴスの論理」による抑圧を受け、頭が固くなっていくのであるが、アインシュタインはその幼児性を保持し続け、高次元な流動的知性でもって偉大な発見を成し得たのであろう。小生はそのように思う。

 アインシュタインは「同時刻の相対性」をもとに、流動的知性でもって、動いているものは長さが縮んで見えるという結論に至り、これも数式で示した。文字を使って示すと次のとおりである。
  宇宙2
 長さが縮んで見えるということは、空間が縮んで見えるということであり、これは時間の遅れ方と関係し、その関係式も示した。これ以外にも幾つかの関係式があるが、全ての説明を省略する。小生にはやっと着いていけるギリギリの限界であるからだ。
 アインシュタインには、時間が遅れたり、長さが縮んだり、空間が縮んだりしても、一向に支障がないと思えたのであろう。
 こうして、奇妙奇天烈な物理学が誕生した。しかし、光の速度は30万km/秒と桁違いに大きく、これに近い速度で動く物体は実生活では全く有り得ないものであり、音速でさえ、その100万分の1に過ぎない。ここに掲げた数式に音速を代入しても、1兆分の1という極微小な間違いしか生ぜず、正に机上の空論でしかない。
 こんなものは実生活では無用の長物であって、これは単に学者たちのお遊びの世界に過ぎないのである。特に西欧においては、次の事情から、アインシュタイン君よ、勝手に遊んでおれと思ったことであろう。鈴木秀夫氏は、西欧人と日本人の学問の捉え方には大きな差があると、その著書「森林の思考・砂漠の思考」(NHKブックス)で述べておられるので、その要旨を紹介しよう。

 西欧人にしてみれば、真理は神のみぞ知るであって、自然科学というものは「暇人(学者の語源)」が単に「私にはこう見える」と主張しているに過ぎないという感覚で受け止める傾向がある。このあたりは日本とは大違いの受け止め方である。
 いかに欧米化されたとはいえ、日本では、学問とは真理の探究であり、専門の学者が確たる証拠を手間隙かけて集め、重箱の隅まで突いて絶対に間違いがないものに仕上げねばならないのである。日本の学問、特に自然科学に対する学者の取り組み方は今も昔も変わっていないし、一般大衆の受け止め方もそうである。(引用要約ここまで)

 日本においては、なぜに学者がそのように取り組み、一般大衆がそのように受け止めるのか。それは、日本人が職人の「匠」の技を高く評価することからきていると小生は思うのであるが、詳細については、第2部の中で展開することにする。
 日本の文化は、明治維新以降、欧米文化がどんどん入り込み、特に戦後は凄まじいものがあって、今日に至っては、あらかた欧米化されてしまったような感がするが、こうした微動だにしない文化も数多く残っているのである。
 この極端に違う学問の捉え方の文化の差は、一長一短があるものの、西欧では、ガリレオが主張した地動説に対する宗教裁判で代表されるような神による抑圧が近代に入って解かれ、誰でもが自由かつ気楽に学術論文を発表できるような雰囲気になり、自然科学を大きく進歩させる原動力になっているように思われる。
 木っ端役人のアインシュタインが正にそうであったし、また、序章で紹介したシナリオ・ライターという文系の者であっても人類進化に関する学術論文を平気で発表できる土壌があるのである。もっとも、文系の者に理系の専門家が負けを認めるわけにはいかないので、彼女は徹底的に叩きまくられたのではあるが。
 これに対して、日本の場合は短所ばかりが目立ってしまう。学問に自由さや気楽さが全くないのである。小生のようなズブの素人が学術論文を発表でもしようものなら、「学者でもない奴が言うことなんぞ、たわごとであり、検討にも値しないわ。」と、日本人学者は誰一人として取り合ってくれないのである。
 そして、世間の目も、専門家でもない者には高尚な学術という別世界のことが分かるわけがないと、まことに冷ややかである。
 のちほど本書で、小生の新・宇宙論を登場させるが、高校程度の物理や数学の知識では、そんな難しいことが分かることはないと完全に無視され、また、偏見のまなざしが注がれるのである。
 そこのところは、何とぞ、悪しき日本文化を捨て、西欧文化の良いところを見習い、小生の宇宙論は「暇人が、単に私にはこう見える」と主張しているに過ぎないという感覚で受け止めていただいてよいから、その点、あらかじめお願いしておきたい。

3 アインシュタインの未来神話の始まり
 「光の速度の絶対」が、「絶対の時間」や「絶対の空間」を相対なものに変えてしまうという不思議な力に、アインシュタインは魅せられたからであろうが、彼が凄かったのは、これだけにとどまらず、「光の速度の絶対」が「絶対のエネルギー」や「絶対の質量」、つまり、「エネルギー保存の法則」や「質量保存の法則」をも相対なものに変えてしまうのではないか、と考えたところにある。彼の流動的知性はどこへでも流れ出していく。
 そこで、予言したのが、特殊相対性理論の中で最も有名な、次のエネルギーと質量の関係式である。
  宇宙3
 当時においては、いかなる物理現象や論理を持ち出しても説明のできない理論であり、実験物理学を総動員しても全く確かめようがない、正に「予言」であった。これは、完全に「未来神話」の創作である。
 しかし、この予言=未来神話は、多くの学者を信じさせたのである。神話というものはそういうものであり、流動的知性を持ち合わせていれば理解できる性質のものである。もっとも、当時の学者にそのような原初的知性があったとは思えず、アインシュタインのペテンに見事にはまって信じただけのことであろう。それを説明しよう。
 上に掲げた式は、幾ら有名でも物理学者以外には馴染みの薄いものであり、この式も我々に身近な最高速度である音速を当てはめてみれば、限りなく次の単純な式に近づいてしまう。
  宇宙4
 一般人でもよく目にする式であり、静止時の関係式である。この式をよくよく見ると、光の速度の2乗はバカでかい数字であり、たった1グラムの物質が消えてなくなったとしても、とんでもない莫大なエネルギーが生まれ出てくると思わせられるのである。
 この予言から30年以上後の1938年に、ウランの核分裂により、わずかな質量の減少にもかかわらず、莫大なエネルギーの発生が確認された。アインシュタインの予言は当たっていたのである。また、核分裂は連鎖反応を引き起こすことも判明した。
 これが悲劇を生んだ。時は第2次世界大戦の前夜であり、いち早くこの発見を知ったナチス・ドイツは原子爆弾の開発に着手した。そして、ユダヤ人の亡命を受け入れ、遅れてこの情報を入手した米国も「マンハッタン計画」のもとに原子爆弾の製造を急いだ。その結末はご存知のとおりである。
 さて、ここでもう一度、直ぐ上の「エネルギーと質量の静止時の関係式」をよくよく眺めてみよう。「E」と「m」は変数であり、光の速度「c」は絶対であるから「c(c2乗)」は定数である。この数式の形は中学校の数学で習う。別のアルファベットを使い、
   y = a x
という形である。「y」と「x」は変数であり、「a」は定数である。決して次のようには書かない。
   y = x a
 これは数学の決まりであり、必ず定数が先に来る。加えて、エネルギーと質量の関係式において、「E」と「m」の単位には共通因子が全くなく、かつ、全てのエネルギーに共通して使う単位はないのだから、数式を成立させるためには、当然にして、それぞれの単位をあらかじめ定めておかねばならない。すると、エネルギーと質量の関係式は、次の最も簡単な式に落ち着く。
    E = m
 「m」の単位はg(グラム)が最適であろう。そして、1gの質量が持つエネルギー量を示す単位を新たに作ればよい。その単位を、例えば「アインシュタイン」と呼べばよいのである。そして、それぞれの項に単位を添えて式を示すと、
    E(アインシュタイン)= m(g)
 これでよいのである。いや、こうすべきである。この式は実にシンプルで「美しい」。「真理」というものは皆、「美しい」のであり、「美しい」から「真理」とも言えるのである。アインシュタインもそう言っている。
 なお、「真理=美しい」とは、「ロゴスの論理」を無視した論理的飛躍であり、とても認められるものではなかろうが、「対称性の思考」からすると、そのように思えるのであり、その説明は第2部の中で展開することにする。
 さて、この式のエネルギーの単位であるが、近代力学の大御所であるアイザック・ニュートンに敬意を表し、力の単位に「ニュートン」というのがあるのだから、この式を発見したアインシュタインに敬意を表して、そのように定めるのが本筋であろう。こうした例は自然科学の数式に幾らでもある。
 でも、これを当時のアインシュタイン君が聞いたら、あの広い広いオデコ、であったかは知らないが、それを真っ赤にして、そこから湯気を立てて激怒したことだろう。
 「<美しい>のは光の速度の2乗であり、この式から<c>を消すとは何事ぞ。<c>は定数であっても、莫大なエネルギーを作るもとであるから、質量<m>は脇役であり、主座に鎮座するのは<光>である。<光>は数式の決まりをも破る偉大な力を備えているのである。エネルギーの単位に我が輩の名前など使ってもらわなくてもよいわ。式の<美しさ>が消えてしまうではないか。」
 ところで、チョット待てよと、ここまでの式の説明に間違いがあると気づかれた方がおられよう。
 最初に出てきた等速直線運動の一般式の右辺には分子に「c」が入っており、静止状態だと「v」はゼロだから、それを代入すると、ちゃんと「c」が残るではないかと。
 確かにそのとおりになるが、「c」は定数であり、もともとの式にも不要であり、次のように書けばよかったのである。
   宇宙5
 ところがである。「c」を入れない式を持ち出すと、困ったことが起きる。上の式を眺めて、「v」をゼロにしたときには「E=m」となってしまい、これでは余りにも単純にして明快過ぎて、にわかには信じてもらえない。
 そこで、誰もが光の速度は、その単位を通常km/秒を採用して、30万というバカでかい数字を頭に描くし、加えてニュートン力学でも、運動エネルギーは速度の2乗に比例するので、「定数」を光の速度の2乗として書き加えたほうが理解されやすい。すると、定数「c」は900億という、とてつもない数字として頭に描かれることになり、この予言式の重みが増す。物理学者であれば、速度の単位にm/秒を採用し、「c」は9京(京は兆の1万倍)という巨大な数字として捉えるであろうから、なおさらである。
 今日では、実際に1グラムの質量を消失させると、約22万トンの零度の水が全部沸騰するに相当するエネルギーが生ずることが分かっており、そのあまりにも巨大なエネルギー量からして、数学としては「間違った式」が物理学においては「眩しいほどに<美しい>式」として崇められるようになってしまうのである。
 「光の速度の絶対」に魅入られてしまったアインシュタインと、特殊相対性理論を学び取った学者は、そのように思ってしまうのである。そこには宗教の世界の教祖と信者の関係がある。信じ込ませる力が「c」にはある。それを感づいていたからこそ、アインシュタインは、わざと「c」を式に入れるというペテンを堂々と行ったと小生は考える。
 アインシュタインにも煩悩があった。自分が作った「予言」を皆に信じさせたいという欲望があった。暇人の単なる「遊びごころ」から特殊相対性理論を発表していれば、「c」が挿入されることはなく、それほど注目されなかったであろうし、原子爆弾の開発に遅れが生じたかもしれない。広島や長崎に原爆は落とされなかったかもしれない。過ぎ去ったことを悔やんでも意味はないが、これを教訓として生かすには、エネルギーと質量の関係式から「c」を外していただきたいものである。
 小生は、何事にも天の邪鬼として立ち振る舞う悪い癖があるので、20世紀最大の偉大な科学者であるアインシュタイン大先生に対しても、このようなケチを付けてしまうが、それは、自分が誰の信者にも、誰の奴隷にもなりたくないからである。
 そうしないことには、あともう一歩で届くところに真理があったとしても、その真理に永久に手を届かなくしてしまうからである。アインシュタインの一般相対性理論が正にそうであり、これについては第2章で詳細に説明する。
 そして、先に述べたように、「真理」というものは「美しい」と思うのであるが、アインシュタインが言うような「眩しいほどに美しい」とは決して思わない。飾りつけられたような「美しさ」には、ここで紹介したエネルギーと質量の関係式のように、何か意図があったり、思い込みがあったりするものであり、「真理」から外れてしまうのである。本物の「真理」には、「控えめな、さりげない美しさ」があるだけである。これが、小生の自然科学における基本哲学である。

(つづき) → 第2章 真の宇宙像に迫る
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プロフィール

昭和23年9月生まれの団塊世代人。    本名:三宅和豊              住所:岐阜県羽島郡岐南町三宅5-246  農家の長男として育ち、工業系の大学を卒業後、岐阜県庁に技術屋としてではなく事務屋として就職した変人。21年間県職員を勤めて、中途退職。父親が始めた薬屋稼業を平成6年に継いで今日に至る。平成12年頃から稼業の傍ら、母親の農業を手伝うなかで、百姓の魅力にとりつかれる。士農工商すべての身分を浅く広く何らかの形で経験していることが唯一のとりえである凡人。              著書は次のとおり。順次ブログアップ中。  随筆「ヤーコンの詩」(平成18年3月)   論文「食の進化論」(平成19年4月)   論文「新・学問のすすめ」(平成20年4月)論文「犬歯の退化」(平成22年9月)

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