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第3章 Em宇宙モデル(第1節~第7節)

第3章 Em宇宙モデル

 それでは、ここに、アインシュタインと小生の合作によって完成した宇宙モデル、その2人の本名の頭文字をとり、といっても同格では僭越過ぎるので、小生の頭文字は小文字にして、「Em宇宙モデル」と呼ぶことにするが、それを紹介することとしよう。
 なお、「Em」には、エネルギー(E)と物質(m)の2つで、宇宙が語り得るという意味合いを込めさせていただいた。
 小生がどんな切っ掛けで、どんなことが閃いたかについて、それを最初に説明せねばならないのであるが、それは「ロゴスの論理」を完全に外れるものであり、これをいきなり切り出しても、何のことか誰にもさっぱり理解できないであろうから、それは第1部の最後の章で記述することにした。
 では、これより理詰めで、つまり、「ロゴスの論理」に極力従って説明していくこととする。(本章は難解な文章の連続であり、内容を理解できなくても、そのまま読み進め、ところどころで登場する様々な論理法に注目していただければよい。)

1 時間は無限大に流れている
 まず最初に、時間は無限大に流れているのか、創造と終末があるのか、どちらなのか。
 結論を先に言おう。
 これは、アインシュタインが直感したことでもあり、時間は無限大に流れているのである。
 古代から現在に至るまでのインド哲学者が、当然のこととして宇宙は無限大の時の流れの中にあるとしている。なぜ、そうだとインド哲学者が断言するのか、小生の不勉強でそれを知らないが、インド哲学には、ものに内属する属性という概念が度々登場する。その概念を用いれば、あっけなく分かってしまうのである。
 特殊相対性理論において、時の刻み方は場所により一定ではないことが明らかになった。進み過ぎることは絶対にないが、遅れることがある。そして、光の速度になると時間は止まるが、物質は光の速度になれないから時間は絶対に止まらない。
 物質が有り続ける限り、その物質に内属する時間は止まらないのである。インド哲学的に考えれば、物質には「時間」が付着しているのであり、物質は「時間性」を有していると言えるのである。
 河原で拾った石に時計を貼りつけておけば、その石が消えてなくならない限り、時計を貼りつけた時点から永遠に時を刻み続けるのであり、当然に、その石ができた時点から時は刻まれ、時間が流れてきているのである。
 これを宇宙空間の出来事に当てはめてみよう。太陽の小爆発で宇宙空間にガスが放出されることがある。そのガスの中の1個の水素原子核つまり陽子1個に着目しよう。その陽子は物質であるから「時間性」を有している。太陽表面から放出されたときを時間のスタートとする。その陽子に付着した時間は、放出時が0秒であり、その後、1秒、1分、1時間、1年と時を刻み続ける。この陽子が太陽なり他の恒星に吸い寄せられて、核融合でヘリウムの原子核(陽子と中性子各2個からなる)を構成するに至ったとしても、他の陽子や中性子と時刻は異なるにせよ、あの1個の水素原子核に由来する陽子に付着した時は淡々と刻まれ、時間は流れ続ける。
 宇宙では別の現象も時として起きる。その陽子がエネルギーつまり光に変化し、宇宙空間にまき散らされることがある。光に付着した時間は決して進まない。光の速度になると時間は止まるからである。その時に、今までその陽子に付着していた時間は止まる。でも、光は波動であるとともに粒子(光子)であり、その陽子から数多く放出された光子の1つが間もなく他の物質に吸収される。すると、その時から光子に付着して止まっていた時間は、前の陽子の時間を引き継ぎ、再び時を刻み始める。こうして、この宇宙に物質が存在し続ける限り、時間は流れ続けるのである。
 では、宇宙の物質が全てなくなってしまったらどうなるか。物質はエネルギーと相対であり、全ての物質がなくなれば、宇宙はエネルギーだけになる。宇宙が光だけの世界と考えてよい。
 そのとき、全宇宙の時間は止まる。光子に付着している時間は進まないからである。しかし、別の見方もできる。光は光子であるとともに波動でもある。その光の波動は1秒間に30万Kmを進み続け、波動が消えてなくならない限り永遠に旅を続けるから、これを外から観察すれば、時間は決して止まらないと言えるのである。
 また、波動が消失するときは、光が物質に変換したときであり、再びその物質が時を刻み始め、引き続いて時間が流れ始める。
 こうして、将来にわたって無限大の時間が流れるのであり、このことは、同時に過去にも無限大の時間が流れていたことになるのである。こうして、宇宙は無限大の時間の流れの中にあることになる。
 この程度のことは、小生でも簡単に分かってしまう。
 なお、物質もエネルギーも全て消えてしまって、宇宙に終末が訪れるのであれば話は別だが、それは無からの宇宙の誕生とセットになることであり、のちほど、そのようなことは決して起こり得ないことを論証する。

2 宇宙は閉じた有限の3次元空間である
 次に、宇宙は無限の広がりを持つか否か。数学で無限大という考え方がある。そのように宇宙が広く、宇宙に果てがないとすると困った問題が生ずる。
 なお、太陽のような恒星やそれらが集まった銀河の数は有限であるが、その外には無限大の空間があるという仮説は完全に否定される。なぜならば、太陽などから放射されるエネルギーが永久に宇宙の彼方に逃げ出してしまい、太陽など全ての星が絶対0度に冷え固まり、宇宙は凍え死んでしまうからである。何せ、無限大の時間が今までに流れていたのであるから、太陽という核融合炉の燃料がとっくに燃え尽きてしまっているからである。
 従って、宇宙空間が無限大であるとなれば、必然的に恒星や銀河も無限大に存在することになる。
 地球にも太陽にも引力がある。地球が太陽に吸い寄せられてしまわれないよう、地球は太陽の周りを回り、その遠心力によって地球が太陽と一定の距離を保っている。つまり、公転せざるを得ない。
 地球は取るに足りない小さな惑星であるから、これを無視して、太陽の引力だけを考えてみよう。太陽は巨大な引力を持った恒星であり、太陽が属する我が銀河は、太陽のような恒星が何億個も集まっているのだから、単に宇宙空間に浮かんでいるだけの状態にあると、銀河の中心に吸い寄せられて一塊の恒星になってしまう。
 そうならないように、太陽も他の恒星も皆、銀河の中心を軸として、同一方向に楕円を描いて公転している。太陽系の太陽と惑星の関係と似たようなものだが、少し異なり、銀河の中心に太陽の親玉みたいな巨大な恒星があるのではなく、銀河全体に広がった数億個もの大小の恒星がお互いに遠心力を働かせて引力を打ち消しあい、バランスよく釣り合っているのである。
 この銀河が宇宙に幾つもある。宇宙が無限大の広さとなると、銀河も無限大の数あることになる。1つの銀河は1つの総合的な引力を持ち、隣の銀河と互いに引き合う。そこで、全ての銀河が1点に集まってしまわないよう、宇宙の中心を軸として全ての銀河が公転し、その遠心力で釣り合いを取らねばならない。
 宇宙の中心に近い所はほぼ円運動をするであるから遠心力がうまく働き、隣の銀河とくっつくことはない。しかし、宇宙の中心から遠く遠く離れた銀河は何億年も何兆年もほとんど直線運動になってしまい、近隣の銀河との間では互いに平行運動するだけとなる。すると、それらの間には引力が卓越する。そうなると互いの引力で近隣の数多くの銀河が一塊になってしまい、濃密な銀河になり過ぎて、最後は一塊の恒星になってしまう運命にある。
 これでは困る。科学的に困る。そうならにようにするためには、一定数以下の数の銀河が銀河集団を作り、銀河集団ごとにその銀河集団の中心を公転して一塊にならないように保たねばならない。そうした銀河集団がこの宇宙に無限大存在することになる。
 これで解決したと思いきや、そうした銀河集団も宇宙の中心を公転しなければならない。しかし、宇宙の中心から遠く遠く離れた各銀河集団は、今述べたように互いに並行運動するだけになってしまい、相互に引力を働かせて、いずれ一塊になってしまう。
 そうならないようにするためには、一定数以下の数の銀河集団がさらに銀河集団グループを別々に作り、銀河集団グループごとにその銀河集団グループの中心を公転して……。
 これではおかしい。果てしなく一段上のグループ化を無限大の回数行わなければならなくなるからだ。このような複雑怪奇は宇宙は決して安定を保てず、どこかで破綻し、最後には巨大な1つの恒星になってしまう運命にある。何せ、時間は無限大の時間、流れ続けているのであるから。
 こうして、無限大の時間にわたり、物質には引力があるという万有引力の法則が銀河にも適用されて、今の宇宙が存在していることが明らかである以上、宇宙の大きさは有限であると結論付けできる。
 そして、宇宙空間を有限なものに留め置く「力」は、一般相対性理論で明らかになった「空間のゆがみ」以外に考えられない。
 ところで、識者の中には、一般相対性理論の中に「宇宙項」があり、「引力」と反発するようにして、空間には「斥力」が働いているから、銀河が一塊の恒星になってしまうことはない、とするご意見もあろうが、かかる「斥力」はあくまでも仮説であり、それと見間違うような引力がこの宇宙空間に働いていることを、第13節で明らかにする。また、宇宙の構造とは関わりのない所で「斥力」らしいものが働く場合があることを、第4章第3節で説明する。
 いずれにしても、架空のものを安易に持ち出して仮説を立てて説明しようとすることは、せっかく真理に近づいたものを無にしてしまう恐れすらある。真理の探究というものは、基本的には仮説抜きで迫らねばならないのである。
 ここまで、「宇宙は無限大の広がりを持つか」について、小生なりの論理を展開してきたが、古代インドの哲学者は、様々な論理を展開する中で、「有」は「数えられるもの」との明確な考えを持っていたようであり、無限大の「有」の存在は、数学上の架空な存在でしか有り得ないと考えたようである。インド哲学にほんのちょっと首を突っ込んだだけの小生であるから不確かなことしか言えないが、少なくとも、古代の人たちの洞察力の鋭さは、現代の我々にはとても太刀打ちできないのは確かなことである。
 そして、アインシュタインは、「そもそも物質は無限大に離れ得るのか。」という直感的疑問を持っていたのであるから、インド哲学者と同様に鋭い洞察力を持っていたのであり、ますますもって凄い男である。小生はそう評価したい。

3 宇宙は定常である
 ここまでの説明の前提として、宇宙は「定常」であるとした。この前提が正しいかどうか検証しよう。
 そこで、定常ではない宇宙が存在するかどうかという問題を考えてみる。定常ではないということは、宇宙は生まれたり消えたりしたり、均質ではなくてむらがあったりするということである。
 微細なこうしたことは、観測されているように恒星が爆発したり誕生しつつあったり、銀河がある程度の集団を形成していたりするが、これは定常の範囲内の出来事である。また、恒星は、その内部で核融合や核分裂を行い、光エネルギーを発生させるなど、正に生きて動いているのであるから、こうした微細な変化を持つということは定常としての当然の姿である。
 宇宙が定常でないという出来事とは、具体的には、宇宙全体が成長しつつあるとか、消滅しつつあるということであり、また、宇宙全体が膨張しつつあるというのもそうである。
 これは、無限大の時間が流れていることと密接に関連する。定常でなければ、無限大の時間の流れの中で、宇宙は誕生と消滅を無限大の回数繰り返すのが通常の姿となる。現在、盛んに言われている「ビッグバン」という現象が起き、その逆の「ビッグクランチ」がセットになって、これが無限大の回数繰り返されなければつじつまが合わなくなる。
 この説は、誰も唱えていないから無視するが、これと見間違うような類似現象が宇宙で起きていることについては、のちほど説明し、その中でこうした宇宙観も否定できることを申し添えておく。

 次に否定したいのは、無からの宇宙誕生である。
 物質も無、エネルギーも無の状態から、どうして物質やエネルギーが誕生しうるのか。論理的に説明がつかない。無に対して、いかなる働きかけをしても、有は決して生じないからである。
 素直に数学的に考えればよい。「0×n=0」であり、無に何かの有を働きかけをしても、無は無のままである。無限大の有を働きかけたとしても、「0×∞=0」であり、決して有は生まれない。このように、無はそれ自身で安定しきっており、いかなる働きかけをしても無のままであり、宇宙は決して誕生しないのである。
 ところが、“権威ある”最新の宇宙論では、宇宙は無のゆらぎの中から生まれたと言う。何かが生まれるということは、物質もエネルギーも空間も何もない無からではなく、未知の何かの有がもともとあって、それが変化したことになる。
 ここから先は、頭脳明晰なインド哲学者に解説していただこう。宮元啓一氏と石飛道子女史の共著「ビックリ!インド人の頭の中」(講談社)の中で、はるか昔の紀元前7~8世紀に、古代インド哲学者のウッダーラカ・アールニが唱えたことが書いてあるが、これを小生なりに多少現代風にアレンジして要点を述べよう。

 ウッダーラカ・アールニ曰く。
 宇宙がある時に誕生したと仮定すれば、我々が知らない何か別の「有」が誕生の前に安定した存在としてあったことが大前提となる。
 それが不安定な「有」であったなら、直ちに宇宙が誕生するが、それは矛盾する。その不安定な「有」も「無」からは決して生まれないから、何か別の「有」から変化しなければならないからである。
 従って、ある時に、安定した「有」が自ら流出を開始するしかない。しかし、その「有」は、その「有」として自己充足しているのであるから、ある時に流出する必要は一切ないし、気紛れを起こしようがない性質のものである。
 よって、いつまで経っても宇宙は誕生しないのである。
 宇宙創造の神がいたとしても、外力を働かすしかない。仮に、そのような神がいたとしたら、宇宙を創造するまでの間、神は何をサボっていたのか、なぜにある時点で宇宙を創造したくなったのか、気紛れで創造したり破壊したりするのが神なのか、ということになる。論理を無視した悪ふざけも度が過ぎる。

 アールニの実に見事な言いっぷりである。このとき以降、インド哲学者は、神と宇宙創造の2つは論理の対象外として取り合わなかったのである。(ブログ版追記:正しくは、アールニは「無から有は生じない」など体系だった「有の哲学」を著したものの、彼自身は矛盾を抱えながらも流出説[宇宙創造]を採った。その後のインド哲学各派の論争の中で幾つもの流出説や神の存在が皆、論理破綻を来たし、以後、インド哲学者はこの2つについては取り上げるのを避けた。なお、後半部分はバーダラーヤナの言を多少オーバーに表現したところである。)
 現代の宇宙物理学者は、原子やそれ以下の微小なミクロの世界の量子論を持ち出し、論理を無視して、それを宇宙論に展開しているとしか思えない。量子論は不確定性原理を柱として確率で物を言う世界であり、真空の空間にエネルギーをかけると物質が生まれ、この現象を無から有が生まれたと主張するのであるが、これは空間とエネルギーの存在という明らかに有の世界の出来事である。そこにはエネルギーが歴然として介在しているのであり、エネルギーが物質になり、物質がエネルギーになるのは、相対性理論のイロハであるから、いずれにしても無から有が生まれることを説明しているものではない。よって、アールニの論理により、宇宙の誕生は有り得ないのである。
 この他に非定常の宇宙が存在するかどうか検討してみよう。
 まず、現在の宇宙は膨張しているから、永遠に、つまり、無限大の時間、これが続いていくという仮説である。その宇宙の過去をたどれば、過去のどこかで1点に凝縮していたことになり、その時に宇宙創造があったことに帰結する。宇宙創造は今述べたとおり有り得ないから、この仮説は成り立たない。
 次に、宇宙は膨張したり収縮を繰り返すという仮説である。その説明としては、物質には引力があり、空間には斥力があり、そのバランスで成り立っているということになる。今現在は広大な宇宙空間の全体にわたり斥力が卓越しており、宇宙は膨張しているのだと。そして、銀河密度が一定の薄さになると、今度は引力が卓越して収縮に向かうという説明になる。かかる斥力は仮定のものであり、仮定の上に仮定を重ねては論理としては全く成り立たず、この仮説は検討の対象外になるので無視する。

4 4次元的時空の概念は不要である
 こうして考えてくると、定常でない宇宙は決して存在し得ないのである。ここまでに確定した宇宙像は「①無限大の時の流れの中に②有限の広がりを持った③定常なもの」と結論づけられる。
 では、これを踏まえて、宇宙はどんな姿をしているのかを、これから探っていくこととしよう。
 まず、空間と時間を一緒に考えねばならないのか否かである。アインシュタインは、静的な宇宙を考えたので、たぶん時間を無視したであろう。これでよいのである。
 ところが、宇宙物理学者は皆、「時空」という概念に縛られている。3次元の空間と時間を一体として捉えた、いわゆる4次元的時空という、有りもしないものが存在するかのような錯覚に囚われているのである。空間のゆがみは時間を遅らせるという相対性理論に振り回されてしまって、宇宙を語るときには、空間だけを論じていては見間違ってしまうと考えるのである。
 しかし、明らかな時間の遅れは、物質が光速に近い速度で運動しているときや空間が極度に縮んでいる場所で生ずるだけであり、これは宇宙における現象の中で極めて局所的で一時的なものである。確かに、そこにおける現象は時間を無視して語ることはできないが、その場合においても、時間は物質や空間のありさまによって遅れるだけであって、時間が作用して物質や空間のありさまを変えるものではない。時間と他のものとの間に相互作用が働くことは決してないのである。従って、時空という概念を登場させる必要はどこにもない。
 ところで、「宇宙」という言葉そのものの語源は何であろうか。これは漢語であり、「宇は空間を指し、宙は時間を指す」と、漢の時代の哲学者が定義したものである。その時代に「時空」という概念を持っていたのであるが、本編における「宇宙」は、「宇」として話を進め、第4章で「宙」に言及することとする。

 それにしても、「有限の広がりを持った定常な宇宙」は、どんな形をしているのか、容易にはイメージが湧いてこない。
 球であれば、球の外側に物質が何も存在しない真空の空間があることになり、これでは空間が無限大になってしまって、先に述べたように、これは間違いとなる。
 ところが、宇宙空間にはゆがみがある。物質が存在する限り、空間はゆがんでいる。たった1つのちっぽけな太陽とて、空間をゆがめる力がある。一般相対性理論で明らかになった、最も有名な、そして、最も重要なことであり、ここに難問を解くカギがありそうだ。
 我々が観察し得る宇宙空間は、物質が均等に存在するのではなく、銀河に集中して存在しており、銀河同士は途方もなく離れている。そして、銀河と銀河との間の空間は、完全な真空に近いほどに物質の存在がほとんど認められない。そうなると、宇宙空間は局部的にゆがみが起きることになり、全体としては不規則に凸凹にゆがんだものになってしまう。これではあまりにも醜い。
 空間力というものがあって、真空の空間相互に何か特別な力が働いていると仮定すると、そのようなことはないのだが、仮定のもとに論理を進めると、先にも述べたが、間違った結論に至るだけである。従って、空間力の存在は否定して取り掛からねばならない。

5 美しい図形それは円と球
 アインシュタインが思い描いた「一様な正の曲率を持つ閉じた球面」つまり「綺麗にゆがんだ空間」というものは、どんなものであろうか。まず、これを考えてみよう。
 数学的に考えれば、これは図形の1種であるから、次元を落として、最も単純な図形からアプローチしていくこととしよう。
 2次元つまり平面における最も美しい図形は何か。3角形でもなく4角形でもなく、それは「円」である。日本国の国旗・日の丸が世界の国旗の中で一番美しいと言われているように。その「円」の最大の特徴は、1次元である「線」で囲まれた2次元の図形のうち、線の長さが同じものの中で、最も面積を大きくする図形である。ここに、「円」の「美しさ」がある。
 3次元つまり我々が認識でき得る立体を形づくる美しい図形とは何か。それは「球」である。これは、物質が集合したときに最も安定した形であり、地球も「球」である。もっとも地球は真球ではない。自転しているから赤道方向にやや膨らみがあり、自転軸に沿って切ると気持ち楕円形をしている。また、火山噴火や大陸のプレートが押し合ったりして凸凹が偏在しており、表面は決して滑らかではない。こうした局地的な事象を無視すれば、そもそもの地球というものは、美しい「球」であることは絶対的な事実だ。
 我々が現在観察し得る銀河はたったの1万個程度にしか過ぎないが、これは宇宙全部の銀河ではなくて、実際にはその何桁も多くの銀河が存在するかもしれない。そうなると、数え切れないほどの銀河が部分的に濃淡を持ちながらも、限りなく均質性を保って存在し、巨視的にはアインシュタインが思い描いたような「綺麗にゆがんだ空間」を形づくっていると考えるのが素直というものである。
 では、「綺麗にゆがんだ空間」というものは、どんな形のものであろうか。2次元のそれであれば誰でも分かる。地球表面は綺麗な一定の曲率を持って形づくられており、これが平面のゆがみであり、「円」という平面に綺麗にゆがみをつけてやれば、閉じた図形である「2次元球面」を形づくるのである。これを3次元的に捉えると、その球面で囲まれた空間を「球」と言うのである。
 それと同じように、3次元の空間にゆがみをつけてやればよいのだが、容易には想像できない。苦しい表現ではあるが、「球の球」の形、これは図示できないが、美しい形、それも極めてシンプルな形をしていると想像される。
 話がくどくなるが、少し違った角度から考えてみよう。紙を丸く切り取り、これを立てて回転してやれば「球」ができる。「円」という2次元の図形が「球」という3次元の図形を形づくってくれるのである。「円」という元々の形を留めつつ、そのシンプルさや美しさを保ったままで「球」という、「円の円」とでも言うべき図形を形づくるのである。
 「一様な正の曲率を持つ3次元空間」というものは、また違ったやり方になろうが、4次元的に言えば、「球」のシンプルさや美しさを保ったままで、「球の球」とでも言うべき図形を形作づくっていると思わざるを得ないのである。
 もっとも、4次元空間(ここで言う4次元は、時間軸を含まず、空間軸をもう1本足しこんだ仮想空間)というものは実在しないので、これは仮想の世界からの表現に過ぎないが、しかし、実在しないからといって意味をなさないものでは決してない。
 「ない」けれども「ある」という論理を働かせることによって、見えてくるものがたくさんあるからである。そして、何かが見えてきたら、「ある」世界に別れを告げて「ない」世界で物を言えばよいのであるからだ。

6 3次元ポアンカレ予想
 4次元空間を含む多次元空間を扱う高等数学であるリーマン幾何学がそうであり、多次元空間は、「ない」けれでも「ある」と考えて行う学問である。小生には難し過ぎて全く歯が立たないが、何かと意味がある学問であり、その応用範囲も広いようだ。
 その高等数学において、最近、宇宙の姿の謎解きに大きなヒントを与えてくれる、ある証明がなされた。それをここで紹介しよう。
 アインシュタインが新たな物理学を切り開くのに、高等数学の知識を必要とした。これにより、高等数学の価値観は大いに高まった。彼が特殊相対性理論を発表した前年に、数学者ポアンカレが、ある論文で述べた予想がある。「閉じたn次元多様体で、n/2連結性を持つものはn次元球面に同相であろう。」というものである。
 何のことか、さっぱり分からない高等数学であるが、アインシュタインは、当然にしてこの論文を知っていたに違いないし、これに着目したであろう。そして、ポアンカレ予想は正しいと直感し、宇宙は閉じた球面である「3次元球面」と考えた。もっとも、これは、小生が勝手に想像して言っているだけであって、アインシュタインは、それより前にそう思っていたかもしれない。
 ポアンカレ予想について、少々詳しく紹介しよう。
 これを解くに当たってはかなり大変だったようであるが、4次元以上については近年になって解決した。しかし、「3次元ポアンカレ予想」については今までに何人もが挑戦したが、誰も解けなかったのである。
 そうしたこともあって、米国のクレイ数学研究所が、21世紀の課題としての「数学7大難問」の1つに「3次元ポアンカレ予想」を掲げ、それを解決した者に対して100万ドルの懸賞金を支払うことにしたので、これが一躍有名になった。
 ところが、この解けそうもない3次元ポアンカレ予想を解いた者が現われたのである。ロシア人数学者、グレゴリー・ペレルマンである。米国の科学誌サイエンスで2006年の自然科学界における最も素晴らしい業績であると称えられ、また、同年、数学のノーベル賞であるフィールズ賞にも選定された。
 彼はこの難問をどうやって解いたのか。その証明論文を見たって小生には1行たりとも分からないが、その解説をなさる学者の論説などから、その思考方法だけは分かる。それを紹介しよう。
 物理学に数学は付いて回るが、その逆の数学に物理学を持ち込むことはなさそうだ。しかし、物理学も得意とする彼は、3次元ポアンカレ予想を解くに当たり、物理学の概念を持ち込んだ。カギとなったのは、エントロピーの概念のようであるが、時間変形する方程式の解の構造を調べるというのが問題を解く基本になったというから、そう説明されれば、なるほどエントロピーの概念が使えるな、ということになる。
 その謎解き手法は、全く関係のない物理学を異質な学問である数学にドッキングさせるという、ペレルマンにしかできなかった、新たな思考のなせる業としか言いようがない。
 ペレルマンはどういう切っ掛けで、このような発想を持ったのかについては、彼は何も語っていないが、その思考の突飛さはアインシュタインと通ずるものがあることは確かである。
 アインシュタインの特殊相対性理論も当初は批判されたり、大半の学者が注目しなかったように、ペレルマンの証明も数学者が皆、面食らったのか、発表から3年間はほとんど誰も相手にしなかったという共通性があり、画期的な発見というものは、固定観念に縛られた学者にはとても理解し得ないことなのであろう。
 この偉大なるペレルマンという男は、どういう人物であろうか。気になるところである。何と、彼は、懸賞金も賞も拒否し、姿をくらまし続けているのである。彼は、2003年に3次元ポアンカレ予想を解いていたのであるが、その少し前から研究に打ち込むために人付き合いをしなくなり、2007年10月現在、彼が何か別のテーマの研究に没頭しているとのことである。
 正に、変人・奇人にふさわしい生き方であり、一切の権威を持とうとしないペレルマンであるからして、研究に没頭したいという彼の好奇心が、近い将来、何かとてつもない21世紀最大の大発見を成し遂げてくれるかしれない。(ブログ版追記:2015年現在、残念ながら、まだ大発見はなされていない。)

 さて、3次元ポアンカレ予想の解決が、宇宙がどんな形をしているのか、その謎にどのようにして迫るものなのかを説明しよう。
 しかし、事は単純ではない。4次元という実感できない空間の理解が前提になっており、一方、宇宙物理学者たちは、これを単なる数学上のお遊びとしてしか捉えていないからである。
 なぜならば、3次元ポアンカレ予想の解決というものは、単に、「閉じた3次元多様体で、単連結性(この用語の意味は後で説明する)を持つものは3次元球面である。」ことが、多次元を扱う数学上において証明されただけのことであるからだ。
 つまり、これを宇宙の構造に適用すると、「単に空間があるだけの宇宙というものが、仮に閉じた空間であるとするならば、それは3次元球面である。」と言っているに過ぎないのであり、現実の宇宙が閉じた空間であることの証明とは全く無関係なのである。
 しかし、宇宙は有限であることを小生は、すでに説明しきった。宇宙が有限であるということは、宇宙は物質がもたらす空間のゆがみが起因して「閉じた3次元空間」を形成しているのであり、ペレルマンは、現実の宇宙が「3次元球面」になっていることを、数学的に証明してくれたのであるから意義があるのである。

7 3次元球面が真の宇宙の形
 では、「3次元球面」とは、どういう形か。これは、4次元という数学的観点に立って、はじめて物が言えるのであって、4次元空間というものは実在しないものであるから、3次元球面というものを言葉で説明しきることは、小生ごとき凡人には不可能である。
 これは、幾つかの間接的な表現の中からイメージしていただくしかない。まずは、次のように思考を進めていくしかなかろう。
 ポアンカレ予想を2次元の世界に置き直すと、「閉じた2次元多様体で、単連結性を持つものは2次元球面である。」となる。
 「2次元多様体」とは、縦方向と横方向しか持たない図形であり、例えば、4角形、2重円、単円がそうである。その中で「閉じた」ものとなると、真っ平なものではなくて、折れ曲がったり、ゆがんだ曲面を持つ図形であり、立方体の表面、ドーナツの皮の部分、球の表面がそうである。
 次に、「単連結性」とは、「閉じた2次元図形の表面の任意のある1点から、任意の長さの紐を伸ばしていき、その紐の先端を出発点に戻してループを作る。そして、その紐を引き絞ったときに、どこにも引っ掛からずに、その1点に戻りきってしまう。」という性質を持つものを言う。
 この条件に適合する図形はどんな形か。立方体の表面やドーナツの皮の部分は、紐の伸ばし方によって何度も引っ掛かりが生じてしまうから駄目である。球や卵型であれば、この条件を基本的にクリアするのであり、これを「単連結性」と言うのである。
 従って、「閉じた2次元多様体で単連結性を持つもの」は容易に理解でき、地球の表面がこれに当てはまり、これを「2次元球面」と言うのである。

 さて、本題の「3次元球面は?」と言われると、まだまだ、どうにも認識しようがない。さらに想像をたくましくして思い巡らせていこう。先に、宇宙が「球の球」の形をしているのではないかと言った。一方、3次元ポアンカレ予想の解決から、閉じた宇宙であれば「3次元球面」の形をとることが証明された。
 そこで言えることは、「球の球」なるものと「3次元球面」は、同一であるということである。だからといって、まだ何かが想像できるものではないが、「3次元球面」と「2次元球面」というものは、異質ではあるが類似性があるということを考慮に置きながら、次のように思考を巡らすと、「3次元球面」がおぼろげながら脳裏に浮かんでくるのではなかろうか。
 地球という「2次元球面」のある地点に立って、地球の表面を観察する者には、地球の表面というものは、その一部分を見ているだけではあるが、広々とした大地や海原が果てしなく広がった、真っ平な「2次元の平面」であると認識される。そして、自分は、地球という「2次元の平面」の中心にいると認識する。これは、とてつもなく大きく広がった「2次元球面」の特質であり、地球の表面上のどこに立って観察しても全く共通して認識されることである。
 さて、ここで、とてつもなく大きく広がった「3次元球面」である宇宙に目を転じよう。地球の表面が一定の面積を持つように、宇宙は有限な閉じた空間であるから宇宙も一定の体積を持つ。
 地球から宇宙を眺めると、3次元の全ての方向にほぼ均等に銀河が果てしなく広がって見える。しかし、眺めることができるのは、宇宙の一部分だけであろう。そして、地球は宇宙の中心にあるように認識する。これは、宇宙のどの場所においても全く同様なものとなろう。地球から遠く遠く離れた宇宙の果てと思われる銀河の中にある惑星から見ても、必ず同じように認識されるに違いない。
 アインシュタインも、「宇宙の辺境はどこにも存在しない。」と言っていたのであり、このように考えてよい。
 次に、地球の表面は「2次元球面」であるから、地の果ては存在せず、表面の全てが繋がっている。だから、自分が地球表面の中心に位置しているように認識するのである。
 それと同様に、宇宙空間は「3次元球面」であるから、宇宙に果ては存在せず、空間の全てが繋がっている。空間が繋がっているということは理解しにくいが、そのようであるから、自分が宇宙の中心に位置しているように認識することになるのである。
 これを別の観点から説明しよう。地球表面のどこで観測しても、観測範囲は同じ大きさの「円」となる。そして、「円」の集合で、地球の「2次元球面」の全体が把握される。
 同じように、宇宙空間は、宇宙のどこで観測しても、観測範囲は同じ大きさの「球」となる。そして、「球」の集合で、宇宙空間の「3次元球面」の全体が把握できることになるのである。先に、宇宙空間は、「球の球」という形ではないかと言ったが、これを指していると考えていただきたい。
 また、先に、3次元ポアンカレ予想は、「閉じた3次元多様体で、単連結性を持つものは3次元球面」であり、これは2次元にも適用されると言った。
 そこで、「単連結性」に着目して、地球表面の全体の把握の仕方を考えてみよう。もっとも効率が良い方法は、紐に一定間隔でカメラを付けておき、これを北極点から真っ直ぐに南極点に向かって伸ばし、地球を1周させて北極点へ戻してから、それを引き絞るという作業を2回行えばよい。まず、東半球側へ引き絞り、次に西半球側へ引き絞る。そして、回収したカメラの写真をコンピュータ解析すれば、全地球表面の地図を作ることができる。地球表面にへばりついた、2次元の世界しか知らないイモムシのような存在であっても、全地球の表面の全てを2次元的に知り得る。
 これを宇宙に適用しよう。ロケットの後ろに紐を付けて宇宙の果てらしき最も遠い所まで行き、再び地球に帰ってくる。どこをどのように進めばよいか。それは、アインシュタインが「ある地点から出発して1方向に進んでいくと、何ら変哲のない場所を巡った揚げ句に宇宙を1周して出発点に戻ってしまう。」と言っているから、そのようにして到着したら、紐を引き絞ればよいのである。
 地球上のように2回の作業では済まないが、四方八方にロケットを飛ばし、魚眼レンズを紐に付けておけば、全宇宙の画像を撮ることができ、これをコンピュータ解析すれば全宇宙の地図を作り得る。
 ただし、その解析画像は3次元の立体画像である。その画像を見る者は、その画像が映し出される空間の中央に位置し、コントローラーで宇宙空間を瞬間移動するような形で、正に宇宙旅行を楽しむようにして全宇宙を知ることができるのであるが、そのような装置はまだ発明されていないから実体験できないものの、イメージすることはできる。
 さて、この場合に、宇宙空間の縮尺を最大限に小さくして、宇宙全体を一度に見られるように装置をセットしてみよう。そして、どれだけかの距離を瞬間移動する。きっと、思ってもみなかった見え方になるであろう。最果ての銀河も位置が、とんでもない所に現われることになるからである。

 ここで、再び「2次元球面」である地球表面について見てみる。日本で発行されている世界地図は、右端にアメリカ大陸が、左端にヨーロッパが位置する。ヨーロッパで発行されている地図を見てみると、右端に日本が位置し、左端にアメリカ大陸が位置する。地球表面の全体を一度に見ようとすると、ゆがみのない1枚の平面地図に落とすしかなく、このようになってしまう。自分の国を地図のほぼ中央に据えて、全地球表面を認識しようとするからであり、正確に書き表すと、最も離れた国は、半分が右端へ、半分が左端へと分割されてしまうことがある。そして、中央に据える国を少し右へずらすと、左端の地域を切り取り、それを右端へ貼り付けねばならなくなる。
 これは、「閉じた2次元球面」を「開いた2次元平面」の地図に無理やり落とし込んだものだから、そうなるのである。
 同様にして、「3次元球面」である宇宙空間もゆがんで閉じているがゆえに同じ現象が起きる。コンピュータ解析して作った3次元宇宙の立体画像に写し出された最果てのK銀河に向かって、ほんの少し瞬間移動すると、今まで真後ろに見えていた最果てのL銀河が忽然と消えて、そのL銀河がK銀河のほんの少し向こうにポッと現われることになるのである。これも、「閉じた3次元球面」を「開いたゆがみのない3次元空間」の立体画像に無理やり落とし込んだものだから、そうなるのである。
 我が宇宙の「3次元球面」というものがどんなものか、ほんの少しは垣間見えるようになったであろうか。まだまだ説明が不十分であろうが、頭の切り替えをすると理解もしやすくなるので、続きは第11節から行うことにし、誰もが知っている古代や中世の宇宙観から学ぶべきものがないか、これを探っていくことにしよう。

(つづき) → 第3章 Em宇宙モデル(第8節~最終第13節) 
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昭和23年9月生まれの団塊世代人。    本名:三宅和豊              住所:岐阜県羽島郡岐南町三宅5-246  農家の長男として育ち、工業系の大学を卒業後、岐阜県庁に技術屋としてではなく事務屋として就職した変人。21年間県職員を勤めて、中途退職。父親が始めた薬屋稼業を平成6年に継いで今日に至る。平成12年頃から稼業の傍ら、母親の農業を手伝うなかで、百姓の魅力にとりつかれる。士農工商すべての身分を浅く広く何らかの形で経験していることが唯一のとりえである凡人。              著書は次のとおり。順次ブログアップ中。  随筆「ヤーコンの詩」(平成18年3月)   論文「食の進化論」(平成19年4月)   論文「新・学問のすすめ」(平成20年4月)論文「犬歯の退化」(平成22年9月)

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